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慎重になる時、ならぬ時。

 人生、着手する物事に、慎重にせねばならぬ時と、気分にまかせる時とがある。そのふたつには明確な区切りがあって、今日はそのお考察路地に迷い込んでみた。

 たとえば、のったりべったり、地に足をつけるわけではなく怠惰に重い足を引きずるような散歩の道すがら、ブランコの揺れる公園が現れたとする。
 すでにブランコはもぬけの殻。
 ブランコ乗りたい! と衝動にかられるかも知れない。
 気分が盛り上がればブランコに乗ればよし。これは気分まかせの選択。

 そのブランコに揺られていると、隣に別のブランコが現れて、キコキコ音を立てながらブランコゆする男に「いい儲け話があるんですよ」と声をかけられたとする。
 この場合、慎重になるまでもない。瞬殺無視。あぶない話には目も耳も付け入る隙を見せる前にロックダウンだ。

 だけどその男が、不思議なことを口にしたら?
「○○さん(あなたの名前)、あなたの財布を拾ったのですが、確かめてもらえませんか?」
 どうしてワタシの名前を知っている? 落としたのかどうか判然としない事実らしきものが真実なのかもわからない。
 こうした時には慎重にならざるをえない。
 さて、どうしたものだろう。

 世の中にはこのように、慎重にならねばならぬ時というものが明確に切り取られている。困ってしまうのは、すべての人に区分けを見切る目が備わっていないこと。

 のったりべったり、アンニュイな散歩の道すがら、公園の入り口に『慎重になる時、ならぬ時』と書かれた人生訓が落ちていた。足を止め、拾い上げるでもなく慎重に、ノートから切り離されたその訓示を二度読んだ。
 キコキコ。
 公園のブランコ上に現れた男が不意に声をかけてきた。「あなたが落とした財布を拾ったのですが、確かめてもらえませんか?」

【月光警察、お仕置きをしにご登場】

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