運に、希望に、光に、未来。
闇の塊であることもある。
でも総じてそれらは長調の旋律で降りてくる。
落ちてくるんじゃない。彼らはそれほど自暴自棄じゃない。だから降りてくる。
降りてくるのだけれども、地に着けば降り立った、にはならない。接地した時点で、落ちた、に変わる。
よく「余り物には福がある」とわかったような顔をした人は口にするけれど、わかったような顔をした人は実はあんまりわかってはいないものなので、信じないようにしている。地に落ちる前に捕まえられず着地したものは余り物なんかじゃない。落ち切ったら最後、拾う価値さえ失くした終わったものにしかならない。
たまにガラクタを宝の山と称し、アリの巣の如く家の中に引き込む癖を持つ人がいるけれど、「何かに使えるかもしれない」希望的観測は、これまで実現した試しのない実らぬ恋なのだ。落ち切ってしまったものは、それと一緒。「いつか役に立つかもしれない」希望的観測もまた実らぬ恋である。
もしかしたら、落ちたものを余り物と喜ぶ人は、落ち切ってしまったものの真意を知らないのかもしれないね。落ち切ってしまったものは、もったいなくもなんともない。地に落ちたら、地が引き受けなければならないものに変わってしまうものなんだ。新陳代謝で排出したものは堆肥にこそなれ、人が大事に懐にしまっておくべきものではない。人には抱えきれないものがあって、それらは「もったいない」と惜しむべきものではない。潔くスパッと抱ええられる別物に任せてしまうのがいちばんだ。
空を見上げると、いろんなものが降りてくる。見逃すものもたくさんあるけど、俯いていてはひとつも追えない。だから、空を見上げる。
日中は青空がある。雲に邪魔されていても、その上には宇宙があるから、青空は永遠不滅だ。目を閉じていても、見上げた先に『これから』があるとわかる。『これから』は『これまで』と違って、毎回毎回新しい。地に落ちて鮮度を失くしたものとは違うんだ。たとえ雲のような存在に邪魔されようとも、その先に希望が見える。
今日もまた空を見る。
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