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茶飲み話。

 仏教は、人をいい人に導こうとする。人はもともと中立で、良くも悪くも転ぶものという認識が底流にある。底流で燻る良し悪しの種を、よい方向に向けて浮上させ発芽に導こうとする。
 だけど世界には、人はもともと悪しき者として、そこからの脱出を説こうとする宗教もある。日本と同じアジアでも「あなたはもともと人様に迷惑をかけているのだから、人にはよくしてあげなさい」と教える宗教がある。同じアジアの修道院にシスターの叔母が派遣された時のこと。数あるエピソードのうちのひとつをたまに思い出す。
 献金の集計は、決してひとりに任せないと叔母は静かに教えてくれた。その感情を抜き取ったみたいな言い方は、冷めはじめた白湯▼ ▼(さゆ)を喉に通すのに似ていた。
 するり。通りゆく喉元にやさしいひと言は、抵抗なく心に落ちていく。ーーひとりでやらせると闇が出る、闇に人の良心は勝てないものだからーーさらりと流し込むには、濃く、重い白湯で、たとえるなら苦く着色した黒湯▼ ▼みたいだった。
 
 人は教えを乞いながら生きていく。道中、試練もあれば試験もある。教育もあれば矯正もある。あわよくば、もあれば、露と消えることもある。
 人生は儚くもあれば、働かねばならぬものでもある。肉体を働かせ、頭を働かせ。錦をはためかせるために努力する者もある、しない者もある。
 生き方を問う者もあれば、問わない者もある。
 今の世に生きていくための方便や手法は、一見、教えられるまでもなく大半は自然と身につけていくように思える。だけど真髄はそこにはあらず。人は組み上げられた環境に躾けられてきたし、これからも変わらない。

 わたしは、悪き者として生まれたのか、そうではないのか。よき人になるのか、悪しき人になるのか。今のところ、検討中。きっとこれからも紆余曲折、七転八倒あくせくもがきながら検討はつづく。道中、人に招かれ茶の湯もあれば、人に騙され煮湯を飲まされることもあるやもしれぬ。ちょうどよい湯加減に間延びすることもあるだろう。わかっちゃいるさ。ぬるま湯に浸ってばかりじゃいられない。
 長湯の温泉旅に空想ふくらみ、次に取れる長めの休みに夢馳せたひとりよがりの茶飲み話。

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