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ゆく歳、くる歳。
また年が暮れていく。昨今は新年の朝日が昇っても、暮れていくのがやたらと早い。ゆく年が毎年加速していくのは、一生ぶんの1年が年々比率演算的に畳の一目盛りずつ短くなっていった積み重ねがあるからだ。
1年が長いか短いかなど考えてもいなかったころは、ただただ前を見て突っ走っていたような気がする。振り返れば、どこに向かっていたのかさえ定かじゃない。離岸流が命を彼岸に運ぶように、“沖”という途方もない漠然に向かわせられた思いが口を苦くする。
人はデジタルを手にするようになってから、乾いたつながりをひび割れのラインのように伸ばしていった。その触手の成長は、養分を貯めた限りある栄養庫(根っこ)から吸い取られていく。人はデジタルで乾燥した手を伸ばしているのに、ドライなコネクトに潤いという幻を重ね、自らを欺きつづけてきた。
だからその潤いと思われたものは、理想であり、実態ではない。
真の心(真心)は、干からびた水路から伝わることはない。実のところ、スクリーンを窓に見立てて外界を知った気になった井戸の奥底のカエルだったのだ。
話がしたい。話のできる人と、会話がしたい。テキストを放って、ポストで受け取る仲じゃなく、息遣いごと交わしあえる話がしたい。刻んできた柱の傷を、目の高さを合わせながら話がしたい。順を追っても追わなくても、柱の傷ごとに会話を交わせる人と話したい。
ゆく年、くる年が迫ってきた今日の今この時間に想うこと。似た歳の人となら、柱の傷ごとにきっと話ができるよね。日本のどこかにきっといる。でもその人はきっと誰かほかのいい人とすでに旅だっているに違いない。迎えの手を伸ばしても、いたはずの場所はとっくにもぬけの殻。連れ去られた痕跡がぬくもりの残り香を隙間風に変えていく。とっくにどこぞの誰かに腕をまわし、手をとって、道中を共にしているという現実は如何ともしがたい。もう、変更することは叶わない。
妬く歳ではなくなってしまったはずなのに、妬く、妬かないに線引きしようとした時点で嫉妬から逃れられていないことに、今さらながら気づかされた。
薹が立ち、それでも似た歳を探す歳、妬く歳に成り下がっても、跡は濁しちゃいかんよなあ。
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達観と欲望、心のままと縛る理性、生きる糧と生きる糧。人はその歳ごとに各種やじろべえの如きバランスの支点をずらしながら、社会の大波小波に身を委ね、折り合いをつけながらかろうじて泰平の世に浮かんでいる。
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