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鍵がない。傘がないのじゃない。でもいずれもないと出かけられないもの同士、不便の類という意味において友になれる気がする。
ない鍵は家の鍵じゃない。足として使う車両の。どこに置き忘れたろう。
もしかしたら、駐車場から家までの短い道行きで落としたのか? 落とせば落下音で気がつきそうなものだが、ちょっとした気がかりや何かで聞き逃したかもしれない。家の仕事部屋にもリビングにも玄関にも見当たらなかったとことで、途中で落っことした可能性に期待を乗せた。
サンダルをひっかけ、歩いた道をトレースする。サンダルの擦過音が気持ちを表し気だるい。
ない。
重い足取りを引きずりながら、目を凝らして復路を辿る。
それでも見つからないから二往復めに入る。
千尋はこのようにして神隠しに遭ったのか、なんておバカなことを考える。深刻から解放されれば、見つかるのではないかという淡い期待はあった。だけど探すのを止めたわけではない。昭和のフォークソングは、探すのを止めた時に見つかることもよくある話で、と人生訓を歌い上げた。ものに溢れた昭和の時代なら、飽食にモノを言わせて車両ごと買ってこれる。最悪の場合の手の打ちようが手中にあった。それくらい懐の広い余裕があれば、俯瞰的視野が大海原に落としたダイヤの指輪を見つけられたかもしれない。
だが時代の波は過去の栄華をすっかりさらっていき、キチキチカツカツで暮らしにしがみつくのにいっぱいいっぱいの令和の時代だ。合理的に無駄を省き、自分の生活を持続可能ラインにまで引き上げておかなければ、胸っぱいに空気を吸い込めない。爪先立ちでチコチコ前に進む足取りである。そんな状態で、よそ見は躓きの素だし、寄り道は人生の無駄遣いになる。
まっすぐ、難題と対峙しなければならない。
道に落ちていないということは、残された道はふたつ。家の中か、誰かに拾われたか。
家に戻り、ひとつめの候補をぷちぷちを潰すみたいにして徹底的に調べあげた。古紙の山をひっくり返し、靴を逆さにして振った。ブーツを振ったとき、タイランドの田舎でボランティアをした日々を思い出した。通訳が眠る前に必ず口にしたセンテンスがある。トイレでは紙を便器に捨てなことともうひとつ。忘れてはならない朝の習慣。「靴を履く前に、よ〜く振ってくださいね。しがみついているかもしれないので、執拗なくらいに。わかりましたか?」
縦床式の農家が山林の木々に囲まれぽつりぽつりと建つ僻地だった。そいつがいても不思議ではないジャングルだった。
「みなさん、蠍には刺されたくないでしょう?」
あの時には出てこなかった蠍が、鍵という訴求物を媒介して出てきたらどうしようと思った。
一応、確かめるために中を覗き込んでみた。そこには蠍ではなくプーマが描かれていた。
机の引き出しも中身を洗いざらいぶちまけた。洋服のポケットも、洗濯機の中も、ベッドの下も覗き込んだ。
ない。
いたしかたない。交番に行ってみよう、と思う。善意の誰かが鍵を拾って届けてくれているかもしれない。善意があれば、という仮定の話だ。
逆に悪意なら、主人の留守に、エンジンかけてドライブに持ち出してしまうかもしれない。そのドライバー、悪意の中にノミの善意でも持ち合わせていれば、ドライブを堪能したのち「ああ、楽しかった」と傍迷惑な歓喜の声あげて返しにくるかもしれない。ノミの善意さえ持ち合わせていなかったら、違った意味で交番に届けにいかなければならなくなる。犯人が海外に盗品を売りさばく盗賊団だったら、懸命の操作虚しく、おそらく車両が出てくることはないだろう。そんなことになったら辛い。
そこでハタと気がついた。交番までどうやっていけばいい? 自転車があれば10分ちょっとだろうが、不幸にもうちに自転車はない。歩けば小一時間はかかる。
やれやれ、足がないとこうも暮らしが不便になる。
そういやじいちゃんは気丈な人だったなあ。山の町から海の町まで、片道2時間を歩いていたんだっけ。ここから交番までならその半分。
しゃーない歩くか。
「しゃーない」じいちゃんの口癖だった。
そのじいちゃんが「しょうもないのう」と自分を責めることがあった。自分に非があり、頑固な爺さんが折れる瞬間。
「ばあさん、わしのメガネじゃ、どこにあるのじゃ?」
大騒ぎをした末にばあちゃんに嗜められる。
「じいさん、頭の上に乗ってるがな」
「あ」目玉を天に向けたじいちゃんが、あげた感嘆の吐息を喉に戻し、しゅんとする。「しょうもないのう」
「あ」
車まで駆けた。鍵は、トランクにささったままになっていた。
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