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お向かいのヒト。

 窓から見えるお向かいさんは、今日も遅くまで仕事に励んでいた。やましいことは何ひとつないんだよ、をあえて強調するように上げたままにされたブラインド。お向かいさんのオフィスでは常時2名の若い女性スタッフと、年配の痩せたシルバーグレイがデスクワークをこなしていた。
 窓越しのオフィスには、常駐者以外に初老の経営者らしき人物と、2人の営業スタッフがいる。観察するまでもなく、日々の動きから把握できる。営業スタッフは、中堅らしき男女。男のほうは帰社するなり、成果と日報を早々とこなすと、一目散という表現がしっくりするくらい、逃れるようにしてオフィスを去っていく。女のほうは、まるでオフィスに帰宅したかのように緊張の糸を解き、帰社後、珈琲豆を手回しのミルで優雅に挽いて、時間をかけてコーヒーを淹れる。それから張り詰めた神経をほぐしてやるように、今日も1日がんばった自分に褒美を遣わすーー香りのたったコーヒーを喉に流し込んでやる。
 定点観測しているわけじゃないから、毎日のことなのかどうかはわからない。長年、窓から見る風景にしばしの憩いを求めていた中で、半ば習慣化した定例の息抜きで、息を吸い込むみたいにして意識に入り込んできたお向かいさんの仕事事情。

 お向かいさんとは、20メートルも離れていない。幸か不幸か視力はよいほうなので、スタッフの表情が手に取るようにわかる。
 ある日の夜、遅い帰社を労い自身にコーヒーのご褒美を与えてほっと息を抜いた彼女と目が合った。初めてのことだった。

 彼女は合った視線にはじめ戸惑ったみたいに見えたけど、こちらのオフィスはもともとブラインドもカーテンもない明け透けなオフィスだったから、向こうからも見放題観察し放題で、こちら事情も把握されてるはずだから、お互いに初見ではなかったはず、心の端にでもささやかな親近感を抱いていたのだろう、わたしに向かって微笑みかけてきて、小さな手を遠慮がちに上げ、小さな子がするみたいにひらひらと振って見せた。

 確かにわたしに対して振っているように見えた。だけど、ほんとうにわたしに向かってだったのだろうか。隣のオフィスの誰かに、かもしれないし、わたしのオフィスの誰か他の人に対してかもしれない。試しに振り返ってみたけれど、わたしのオフィスにはわたし以外はいなかった。彼女がわたしのオフィスに手を振ったのであれば、それはわたしに対して手を振ったことになる。ほかのオフィスに対してのものだったなら、確かめようがないのだけれど。
 わたしに?
 可能性は充分にある。それでもにわかには信じがたかった。動物園のトラがどんなに無防備に人間に近づいてきても、それは人間に慣れたからではない。トラにとって超えられないガラスの壁が2つの世界を隔絶していることを知っているからだ。その確信具合は、外さない天気予報くらい高い的中率に裏打ちされている。向こうのオフィスで手を振る彼女だって、超えられないガラスを盾にわたしを翻弄しているのかも知れなかった。

 それでも、淡い期待が湧いてきた。臍の下に炎が灯ったみたいな小さな花火。線香花火みたいなやつ。妻あり、子宝にこそ恵まれなかったが、冷めたラーメンのように味気ない毎日が待ち受けているとはいえ、家庭はある。そんなわたしにも。
 まさかね。わたしに対してだなんてね。期待値は高まったが、理性が鎮火に走っている。なのにわたしときたら、手を振り返していた。
 勘違いによるすれ違いのようにも思われた。手を振り返しながら愚行に走ってしまった自分が滑稽だった。
 は は 。
 乾いた笑いが喉からこぼれた、瞬時に渇きすぎてしまった喉からの自嘲は、笑いの一区切りごとに喉にへばりつき、うまく笑えていない。
 は は 。
 ところが。
 彼女、今度は振る手を手招きに変えて誘っている。
 まさか、わたしを?
 窓ガラス越しに、わたしは自分を指差し「わたしに対して?」と訊いてみた。訊くといっても、分厚いガラスを通して声が届くわけがない。行き交う車の騒音さえ遮断してしまう遮音性に優れた窓で、空気の振動に頼るコミュニケーションは叶わない。声は届かないのだ。ジェスチャー頼みの会話。
 わたしはへんてこな踊りみたいにして、彼女に思いを伝えようとしていた。滑稽を上塗りしていた。

 彼女は、何をしているの? 早く。聞こえているんでしょう? とわたしを急かした。いや、急かしているように見えた。もっと言えば、急かしているものだとわたしはそのように理解したかった。ほとんど願望だったと思う。
 もちろん彼女の声は届いていない。身振り手振りが饒舌な彼女の言葉となろうとしていた。
 だって、とわたしは身振り手振りで言葉を返す。だけど彼女は「わからない」と言う。話し下手のわたしは、身振り手振りの会話さえ不器用にできているらしい。
 これでは埒があきそうもない。そんか噛み合わない会話に彼女は痺れを切らしたのか、「いいから早くいらっしゃい」と強く態度で表した。なんにせよ、彼女の身振り手振りの言葉はよく通る。遮音された窓に断絶されていようとも、彼女はきっちりと意味を伝えてきた。
「今すぐによ。たった20メートルしか離れていないんだもの。簡単なことでしょう?」

 たった20メートルだって? そのたった20メートルが、ここからでは遠い。ひょいとひとっ飛びというわけにはいかない。ここはビルの32階。隣のビル同士。そこに行くには、いったん地上を経由しなければならない。下降のボタンを押して、待って、乗って。途中階に何度停まるかわからない。焦れる気持ちをさらに焦がしながら地上に向かい、お隣のビルまで移動したら、今度は昇りのエレベーターでまた同じことを繰り返す。
 そこに行くには、行程がはあまりに煩雑すぎる。わたしはモンターギュ家とキャプレット家で繰り広げられた悲恋の男役になった気がした。
 窓のこちら側でついにわたしは頭を抱え込んでしまった。行くべきか、行かざるべきか、その1点を問題に絞り込んだ。すると彼女はコンコンと自社の窓ガラスを叩き、わたしの注意を促した。音はもちろん聞こえない。彼女のリアクションが、わたしの注意を入れ食いの池で魚を釣り上げるみたいに引いたのだ。
 そして彼女はこう続けた。「冗談よ」。それから襟を正したように表情を真面目モードに切り替えて言った。「ごめんなさい。からかったりして。お詫びにこれから食事でもいかが?」と訊いてきた。彼女の身振り手振りの声はよく通る。「夕ご飯、まだでしょ?」
「はいっ」。わたしは直立不動で彼女に応えた。

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