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爺さまの腕の中で。

「背がまた縮んどったんじゃ」爺さまが言う。風を通すための小さな開口部から忍び込んでくる風を確かめるようにして、高速道路に落ち四方に散る陽光の戯れに、爺さまは目を細めた。田舎から越してきた田舎ファッションの爺さまに、タワーマンションは似合わない。その迎合のしなささは、頑なな拒絶の意思表示のように思えなくもなかった。開かれた窓の狭い隙間に伸ばし手は、もう土には届かない。拳を開いて、止まって、ゆっくり握った。失くしたものをつかもうとしたけど、徒労に終わったみたいな所作だった。
 午睡を誘う陽光が、爺さまの半分を包み込み、光量があまりに強いものだから、影の部分が潰れて見える。光に当たるところはあんなに輝いているのに、光で切り取られた残りの半分は、まるで暗闇でできた穴ぼこみたいに、なんにもなかった。
 爺さまはいま、照らされた境界にいるのに、爺さまの心はなんにもないほうに取り残されている。
「爺さま」
 駆け寄って、爺さまの膝に座る。眼下には、観光船の往来も見えれば、テレビ局の球体も見える。
「昔ね」私は正面の海浜公園に向けて、一直線に指を指す。「あそこに観覧車があったんだよ」
 私が生まれる前のことで、聞いた話によるのだけれど。
「そうかい」
 私を膝に乗せた爺さまは観覧車のあったほうを見つめ、一点を凝視する。だけど爺さまが見ていたのはかつてあった観覧車ではない。人生のメリーゴーランドという曲があったけど、きっとそういうもののほうを見ていていたんだと思う。かつて乗った、人生の荒馬たちの。
 爺さま、いまはすべての乗り物から降りてしまったのかな? 爺さまは、遠くから見つめるメリーゴーランドから目を離さなかった。
 爺さまは、爺さまの匂いがする。婆さまが死んでしまうころの匂いとよく似ていた。

 爺さまの手が私にまわり、包む。固く、乾いているのに、滑り止めでできてるみたいなシワだらけの手が私を柔らかく抱いている。
 片側の手を取り、シワだらけの手のひらを私は開いて眺めた。
「木は丸く年輪ができるんだよ。人の年輪は丸くならないんだね」私は開いた爺さまの手に語りかけた。
「丸くなるのは性格のほうなのじゃ。人は歩き回るからの。年輪は縦横無尽に走るのじゃ」爺さまが教えてくれた。
「ふうん」なるほど〜と私は感心する。物知りには、教えてもらうに限る。のじゃ。だけど爺さまは、ちっとも丸くなんかない。性格云々の話はなんとなくしかわからないけど、爺さまは痩身で縦に長くひょろっとしていた。丸というよりは棒みたいなのだ。
「いっぱい悪いことをしてきた手じゃ」
 悪いこと? と私は大袈裟に首をかしげてみせる。
「悪いことをしてきたの?」爺さまの顔に向き、私が尋ねる。爺さまのシワは顔にも広がっていて、年輪を重ねすぎたのか、とくに瞼の上が重さに負けて目を細く押しやっている。
「そうじゃ。悪いことをいっぱいしてきて、し尽くした。おかげですっかり悪いことができなくなった」
 爺さまは、悪人というよりいい人にしか見えなかった。
 細くなった目からのぞく瞳は、光を受けて濡れたように澄んでいる。爺さまは昔からいい人だったに違いなかった。でも、私は、私が生まれる前の爺さまを知らない。もしかしたら爺さまの言うように、この手でいっぱい悪いことをしてきたのかもしれない。

 私は爺さまの人差し指を右手で包み、ぎゅっと握ってみた。そうすれば、悪いものが煮汁のようにシワの間から染み出してくると思った。だけど何度絞ってみても、中からは何も出てこなかった。

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