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風の旅人。

 他人がいいというものを選んでも、ちっとも満足できなくなったから旅に出た。旅はいい。考えておきたかったのに多忙を言い訳に避けてきた課題に向き合う時間が区切りが来るまで持てるから。
 考えることは嫌いじゃなかったけれど、めんどくさくもあった。考え事の途中で邪魔が入ると、それまで考えていたことがすぽんと押し出されるようなタチだった。押し出された考えは、後腐れがない。そのようなタチも持ち合わせていた。
 親は勉強できる子に育ってほしがっていたけれど、血か地か、期待に添えないと感じ取ったところあたりから、人並み以上を求められていたのだと思う。
 つまり人並み以下だったってことだ。
 ところで、人並み以上ってなんだ? その答えが、他人がいいというものを選んでも満足できなくなったところにできた亀裂から染み出してきた。大半の人が流れに乗る生き方の潮流に従えば、そこそこうまくやっていく自分をつくれたかもしれない。身を任せることは不得手ではなかったし、勘はいいほうだったから、自分を偽ってやっていくこともやぶさかではなかった。
 流れに沿えば、めんどうでも誰かが用意した売りたいもの▼▼▼▼▼▼をそろえていかなければならない。ノートを買わなければメモが取れない、そういうことだ。売りたがる人がいて、買う人がいる流れに乗っていれば、経済はまわっていき、収入を得て、使うという循環に乗れる。仕組まれた予定調和の内側で、潮流に乗る人は踊らされている。真実を覆い、やりがいの幕を被せ(そうしないと生きづらいから)、疑問を挟む余地に目を瞑り(都合がいいので)、社会循環のスプロケットを自前でそろえて、用意されたコースに自分の足を合わせてペダルを漕ぎ出す。

 旅は既製品じゃダメだった。パッケージされたり、割引率の高さで誘い込んだりするものには見えない意図が張られている。目的地で誘うものも、目的で釣るものも、テーマで甘い吐息を吹きかけてくるようなものも、みんな経済を好転させるために用意された罠。
 そりゃあ既製品を選べば安易に済む。だけど、魅力が盛られていればいるほど申し込みが殺到し、さらなる経済循環トラップの歯が深く骨に筋肉に食い込むようになってくる。申し込みが過ぎてあぶれる者が出てくるような目眩しに騙されてはならない。あぶれれば悔しさが噴出して、次回は取得するぞと躍起になってしまう。すると本当に欲しかったものではないものが、煽られたことで「欲しかったもの」にすり替わる。崇めたて祀ってしまうようになる。
 経済の潮流に乗ってしまうと、欲望は虚無から生み出されるようになる。いちど火がついた欲望は、油を注がれ、不本意の炎に燃え上がっていく。

 他人がいいというものにそっぽを向けたら、肩から荷物をおろした時のように、背筋が伸びて目を上げられた。景色は、歯を食いしばり踏ん張っていた時と違い、地面だらけではなかった。行き先を誘導される標識は、空の下方に霞んで見えた。
 あてのない旅なんかじゃない。人造的な器に我が身を合わせた満足じゃなく、自律的な精神が満足するための旅。

 用意された目的地に向かう旅だと、人並みに目的地に到着しなければ旅は完遂されない。社会は、完遂の積み上げで循環するようにできている。そして多くの人が人並み以上に成果を上げなければ、社会は膨らんでいかない。人並み以上の人の比率が可能な限り100パーセントに近づくように仕向けてくるのが人造社会だ。どこかに向かうこと自体が目的となってはいけない。完遂させることが大事なのだ。そう教えられてきたし、社会をまわすためにもなる。だから、人並み以上を求められる。

 人並み以上は、実は社会の大半を占める。だけど今、その大多数の人並み以上からあぶれてしまっている。今、向かうところはみんなと同じディレクションではない。そんなもの、糞食らえ! だから、目的地に向かうのではなく、道中を楽しむことを目的とした旅に出る。社会的な視点からすれば、完遂しない旅に。

 結果? 社会が望む結果など出ないよ。道中を味わった満足感が残るだけ。だけど、それがいいと、今なら言える。

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