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湿地の喫茶店。

 森が、強く吹く風に顔をしかめる声は分厚い。緑の深さから、未踏の暗がりから、生死の大地の奥の奥から、何層にも重なった命がこだまする声は、腹の底からうねるみたいにして分厚いさざめきを波状に繰り出してくる。
 一介の人間ごときがちっぽけな分際で偉そうな顔をしても、対峙の土俵に上げてくれるはずもない。
 そこは「高原なのに、夏は過ごしよくないんですよ」と女主人は言った。街から上がったそこそこの標高は、ところによっては涼風の通り道。ところが湿地だけは別格で、「湿地が湿気を抱いているから」、避暑とはほど遠い過ごしにくさに包まれていると彼女は言う。

 喫茶店はその湿地とされるそこそこ広い森林エリアの北部にあった。木立に囲まれ、木々の葉が遮る日影の暗い光に覆われ、湿気に抱かれていた。
「初めてですか?」と女主人に訊かれた。
「この湿地がですか?」と僕が訊いた。
「このお店がです」と女主人が答えた。
「初めてです」と僕が答えた。
 重い湿気に気圧されているのに、会話は軽く乾いていた。反物質が重力を意に介さないように、会話に湿気は何の影響も及ぼさないようだった。
「よく入れましたね」と女主人は、さも感心したような台詞を、てんで関心がなさそうにさらりと流すみたいに言った。
「店構えは入りにくそうには思えませんが」僕は女主人が店を敷居が高そうに見えるかと問われたのかと思ってそう答えた。だけど違ったらしい。さらりと流した顔に困惑の色をさらりと乗せて、それから何事もなかったように元のさらりに戻す。それから「そういうことではなくて」、そこまで話して流れを切った。「ご注文は?」。継続しても意味を成さないものには労力を注がない。そんな区切りのつけ方だった。

 森の声は分厚く、テラス席を隔てるガラスを通してちっぽけな人間を威圧してくる。  
 そういえばこのあたりにはクマも出るらしいことを僕は思い出した。クマもまた、ちっぽけな人間を容易に威圧してくる。
 手渡されたメニューに目を通して僕は「レアチョコのケーキセットをコーヒーで」と彼女に伝えた。
「かしこまりました」女主人は踵を返して厨房に向かう。背中で大きく結ばれていたエプロンの紐が妖精の尻尾みたいに左右に揺れた。

 湖畔をなぞる道は、起伏のあるカーブの連続だった。車の通りの少ないひなびたシーズンだったこともあり、僕はうわずるくらいのスピードで車を飛ばしていたんだっけ。対向車は来ない。後続車もいない。いい気になってアクセルを踏み込んでいた道の先はブラインドの右カーブだった。曲がり切った右手に喫茶店? 目の先に小さな一軒家があった。気がついたがスピードは次の左カーブに向けた速度に乗っている。意図して半ば強制的にでもしないと減速できない速度だった。
 僕はあの時、強くブレーキを踏んだのだった。路面を濡らす大きな落葉樹が制動に悪戯しかけてきたけど、リアタイヤを滑らす勢いで僕はハンドルを大きく右に回したのだった。車は駐車場の砂利に深い弧の軌跡を残し止まった。
 エンジンを止めドアを開けると、森が強く吹く風に顔をしかめ、分厚く唸っている声に包まれた。
 女主人は僕に訊いた。「よく入れましたね」
 湿地がかけてくる圧力に、僕はうっかり油断していた。

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