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【二輪の風景-最終章】消えたバイクとその後。

 DOHCとはいえ250ccシングルエンジンでは、プロジェクトBIG1のあいつには追い縋ることすらできなかった。4気筒インラインフォーの1000ccはアクセルの一捻りでその咆哮を上げ、高速道路の遥か先で鋭角を描く道の頂点に向けて、空を駆るロケットのように遠ざかっていったんだよ。車体は見る間に小さくなって、立体に見えていたものが点になり、視力1・5の視力を持ってしても捕えきれなくなって消えた。
 幻と化した亡霊を、壊れんばかりの振動を撒き散らしながら走る車体で必死に追いかけたさ。でも距離の差はちっとも縮まらない。それでも視界左右の景色は溶け、前後左右に暴れながら後方に飛んでいくくらいの速度は出ていた。
 どれだけぶっ飛ばしても、もう追いつかないことはわかっていた。元々のポテンシャルが違えば、気力、迫力は屁ほどの役にも立ってはくれない。それでも捻り切ったアクセルを緩めるわけにはいかなかった。逆転劇というミラクルは起こせないにせよ、開きゆく差を諦観で広げたくはなかったもんでな。

 上司はそこまで話すと、郷愁に魂を抜かれたみたいにしんみり「いい思い出さ」で締めくくった。
 また乗りたいんだな、と思った。

 営業を統括する上司は、かつて制作現場でコピーライター職に就いていたころ、つめた息を吐き出しに、社のバイク仲間とよく走りに行っていたという。本人から聞いたわけではない。総務で穏やかに仕事をしている気のいい太っちょおじさん高白部長にだ。いつだってバリッとスーツを着こなす上司からは想像できない趣味だった。
 メンバーにはほかに誰がいたのかも聞いた。合計6名。今となってはバイクとは縁遠くなった人もいたし、今でもバイク趣味を公言し、没頭している人もいる。なんとはなしにバイク仲間がつるみ始めたのは、似たような時期にそれぞれがバイクを購入した30年前。僕が生まれる前の話だ。風の噂が赤い糸になって類が友になったと高白さんは教えてくれた。
「メンバーが活発に活動していたのは10年間くらいだったかな。結婚を期に降りたのもいれば、熱が冷めたというやつもいた。車の使い勝手のよさを覚えたら、バイクは不便極まりない乗り物でしかないからな」
 それ以降も細々とツーリングは続き、メンバーは5人になり、4人になり、2人になったところで自然消滅したそうだ。
「それが今から10年前」
 10年前といえば、僕が『仮面ライダー電王』に夢中になっていた頃だ。バイク趣味を折りたたみ思い出にしまい込んだ人もいれば、かたや蕾にもならない花が期待だけを膨らませていた少年もいる。ライダーがツーリング先でピースサインを交わし合うことがあるように、世代を超えたかつてのバイク乗りとこれからのライダーがもしすれ違うことがあったなら、僕たちもピースサインを交わしていただろうか。
「やっこさん、GB250クラブマンに乗っていたよ」
「それがバイクの名前ですか?」
「そうだよ。あちらさんも新しく出たばかりのバイクでさ、見た目はクラシックなのにエンジンは最新技術で作られていてさ。いかにもホンダらしい遊び心満載でさ。単気筒にしては高性能だったけど、シングルエンジンの味わいを最大限に引き出したかったんだろうな。あえてバランサーをとっぱらって、エンジン回すと車体がガシャガシャ騒ぎ出すんだよ。熟練ライダーには懐かしさもあって歓迎されたけど、免許取り立ての新米ライダーが高速道路を走れば、手ごわいバイクだったと思うよ。月に何度か長距離走る俺らにとっちゃ、修験のようなバイクだったんじゃないのかな。高速をしばらく走ると、膀胱が破裂する〜ってやっこさん騒ぎ始めてさ。尋常じゃない振動が刺激しちゃうんだな」
 上司がバイクに乗っていたなんて初耳だったけど、いつもは穏やかに仕事をする気のいい太っちょおじさんが高揚して饒舌になるのを見るのも初めてのことだった。
 この人も真正バイク好きなんだなと思った。
「貴重なお話、ありがとうございました」と僕は高白部長に礼を言って頭を下げた。
「また話を聞きにこいよ。いつでも大歓迎さ」
 高白部長の机には、話しているそばから次から次へと押印待ちの書類が積み上げられていく。仕事ができるのは当然ながら、スタッフを気遣う寛容さが現場からの支持を得ていることが窺い知れた。

 そういえば、うちの上司も部下を威嚇したり萎縮させたりするようなことはしない。道筋を作り、うまくおだてて仕事の軌道にじょうずに乗せる。類は友を呼ぶと言った高白部長のひと言が頭の中で繰り返された。ふたりは(あとのバイク仲間だった4人の素性は話したことがないため知らないが)同類だった。

 高白部長から話を聞きましたよ、と上司に話したら、返ってきたのが冒頭の話。
「そういや、おまえもバイクに乗ってるんだっけな」
「はい。バイクといってもスクーターとのあいのこみたいなやつですけど。スーパーカブです。いずれ250に乗ってみたいと思っています。中免持ってますから」
「そうか」と上司は寂しそうに応えた。追いかけても追いつかない夢に手を伸ばして落胆したような顔をしていた。そう、遠いあの日、縋るようについていったプロジェクトBIG1、CB1000SFを追ったみたいに。
「もう、乗らないんですか」と思い切って訊いてみた。きっと何かしらの事情があってバイクを降り、これまでバイクの話題にふれてこなかったのだろうけど、だから話題を持ち出すのは不躾に思えて躊躇いがあった。だけど、バイク世界に酔う高白部長の仲間だったんだもの、上司も真正バイク好きのような気がしたから、あえて上司の懐に飛び込んでみようと思った。
 すると「引っ越したんだよ」と意外な答え。
 は? 「あの、ハウスじゃなくてバイクの話をしているんですけど」
「盗まれたんだよ」
 時に人気のバイクは不届き者の魔の手によって忽然と消えてしまうことがある。チェーンロックをタイヤに巻き付けているだけでは持ち上げられたらおしまいだし、不動の柱のようなものと抱き合わせても強力な番線カッターの手にかかればイチコロだ。
「おまえも気をつけたほうがいいぞ」
 話につながりはなかったけれども、ベテランライダー(だった?)のアドバイスには、素直に傾ける耳はある。
「はい」それでも腑に落ちなさが、心の中に靄を張る。
 スーパーカブは、今や魔の手の伸びる格好の獲物になっていることは知っていた。だからマンション駐車場の奥の奥、人目につきにくいところを借りて、U字ロックでタイヤを固定し、チェーンロックで柱と絡ませ、厳重に盗難防止に備えている。
「一応、やれるだけのことはやっているつもりです。で、引っ越しというのは?」
 上司のバイク事情が気になって仕方ない。
「バイクを収納できる家にしたんだ」
 ん? ということは、つまり?
「そういうことだ。今度のはシャッター付き」それまでの憂鬱そうな曇りが消え、晴れ渡った顔をして見せた。寂しさや辛さを浮かべた顔つきは、嬉しさを隠すためのカモフラージュだったのかもしれない。
 でも、まだ内緒にしておいてくれと上司は言う。
「レンタルバイクでツーリングに行こうと誘ってみるつもりなのさ」
「もしかして、高白さんを?」
「そうだ」そう言う上司の顔は悪戯心で満ちていた。「だがな、本当は自前のバイク」
「買ったんですか!」張り上げた声は、買った本人より嬉々としていたかもしれない。
「今度は俺の後ろ姿を拝ませてやろうと思ってな」
「てことは、まさかCB1000SFでぶっちぎっていった人ってまさか……」
「高白だ。あいつの旧型BIG1はカワサキH2の敵じゃない」
 胸が高まった。そのツーリング、一種に走ってみたいなあ。
「僕も連れていってもらえませんか?」
「カブで?」
「そうです」
「できないな」
「そんなあ」
「バイク乗りは憧れを未来に描いて手にしていくものだと思う。おまえさんも未来に描いているバイクがあるのなら、自分の手でそいつをつかめ。今のところ条件はたったひとつしかない。高速走路に乗れるようになったら一緒に走ろう。俺たちは遠く離れた道のその先をいつでも目指している。その意志を片時たりとも忘れたことはない」

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