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見られている。呑まれている。

めだかの学校は、覗かれても意に介さず、当のメダカたちはぴよぴよと泳ぎまわっているけれど、人間社会の学校を誰かに覗き込まれている構図にすり替えると怖い。

直感は、宇宙人の侵略か、超管理社会を呼び起こす。

宇宙人の侵略説に関してはスピルバーグさんにお任せするとして、超管理社会といえば、近年ではハオジンファンーーかく景芳氏の『北京 折りたたみの都市』、往年の巨匠ならジョージ・オーウェル氏の『1984年』ということになるのではあるまいか。

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『1984年』が数年前に強力にリバイバルしたのは、ずっと遠くに霞んでいたはずのシンギュラリティが、実はすぐ近くまで忍び寄っていた現実を突きつけられたことによる。
コンピュータの箱を開けて中を覗き込んでいたニンゲンサマが、わずか20〜30年の間に立場が逆転するなんて、ジョブスさんさえ思いつかなかったハプニング。映画の世界なら2時間で終わってしまうひとときの興奮も、現実は「恐怖の始まり」なんだから、底知れぬ不安が空気と入れ替わったって不思議じゃなかった。
珈琲館の店員が会議室のドアを叩き、ポットから淹れたてを注ぎ始めたとき部屋に広がるコーヒーの香り、というのとはわけが違う。

至福のひとときを覆す、コンピュータの長いようで短かった雌伏の思惑。

人とコンピュータの力学は、社会の中でどのように変わっていくのだろう。二者に変化が生じれば、社会を第三者として傍観させておくようなこともあるまい。三者がそれぞれ音をたてて変わっていく、きっと。
キリスト教は父と子、精霊の三位一体で人のあり方を説いたが、情報化社会は三者の力関係をレゴのように組み替えようとしている。先に待つものは、人のあり方なのだろうか。

たまにSFを読みたくなる。

せっかくだから韻を踏んで、近々『三体』(劉慈欣)に臨んでみようかな。

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