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文字の歌を聴け。

 風に歌があるように(『風の歌を聴け』)、それらの文章も、足早に行き交う通りすがりの噂話に耳を傾ける者たちに、歌を語りかけている。
 劉慈欣もまた、描いた歴史の極小の塵のような一点に、旋律を込めていた。気まぐれに、偶然に、を装いながらも、飄々をまとった表情の内側ではあざとく故意に、耳を傾ける者にだけ聞こえるように、その歌は歌われている。

「夜は、満月が、昇った。」

『円』で描かれた一文の、みごとなまでの三連符の三連打。
 否応なしに読み急かされるリズミカルな後押しは、仕組まれた急転直下へのバンジー・トラップ。次の間合いで、粘度と濃度でぬかるむ液体然とした、死体の山と血の海まみれのこの世の殺伐に放り込まれる。

 オーディナリーに生きる者たちは、歌詞で歌は歌っても、文章で歌は歌わない。一言一句に音符が書き込められるなんてこと、誰も教えてくれなかったから。
 悪いのは、教えてくれなかったことにある。すべてを誰かのせいにして、解決を見ないうちに終止符を打ってしまう。
 文章で歌わないのに、終わり方だけは妙に音楽ぽい。

 文章書きは歌うたいと違って、文字で歌うのに外すに外せぬ手枷足枷を引きずっている。ゆえに歌い手と並べればはるかに愚鈍に見える。だけど、それは仕方のないこと。飛べない鳥は渡り鳥ほど空の五線紙にじょうずに音符を描けない。

 字余りで、釈然としないこともある。字足らずに、ほくそ笑むこともある。 
 それでも、愚直でも、歌は聴こえる人に届く。

 この声も、聴こえる人にだけ届く。
 52ヘルツのクジラも『52ヘルツのクジラたち』なのだ。ひとりぼっちじゃない。誰かの耳に届いている。

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