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自戒、思考の深度。

 BBCに、アメリカがパスポートに第三の性表記を考えている、という記事があった。当のアメリカ側のコメントは「(実現には)時間がかかる」としながらも、切実な問題がウェーブを生み、然るべき機関を動かそうとしている構図が浮かび上がる。
 
 朝日新聞には、ネット上で身に覚えのないいじめの加害者にされ、匿名による口撃(文撃?)に苛まされ、不安と恐怖の日々を送る男子学生が、法の下、正義を貫こうとする姿が切り取られていた。
 
 根本にある浮腫は、世界の考える葦たちの多数派に見られる、身の丈に必要な最小限を飛び越えて、他を脅かそうとする気性、素性、本性。
 なぜ人の芝生に踏み入ってまで、自分軸と違うものを排斥しようとするのか。たとえば、以下のような連鎖が起こるとでも言うのか。ご近所さんと話すと、持論に賛同してくれる人が出てくる。「そうだよね」「オレも、わたしも、そう思う」の同意がシュプレヒコールになっちゃって、実体を超えた巨大な姿を形づくる。
 中身が希薄でも姿がデカけりゃこれをマジョリティと呼ぶのだから、葦の知恵も知れたものなのだけれど、多勢に無勢は変わりなく、少数派はつい背中を丸めてしまう。まさかの領域侵犯に驚き、息を呑み、身を竦めてしまうのだ。

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 中には「仕方ないんだ」と納得できない理不尽をメガトン級の不愉快の蓋で閉じちゃって、黙して耐え忍ぶ人もいる。でも世の潮流は、個の主張を後押しするように流れ始めた。戦えば勝てる見込みを提示したのだ。
 これにはハリボテのマジョリティも度肝を抜かれた。赤子だと決めつけひねってきた弱者の手の反撃に、ただただたじろぐばかりなり。マイノリティはこのようにして、地に張った根をむしられるリスクを回避して、かつ根を伸ばす力の種を手に入れた。
 
 戦いが公にさらされれば、法の力づくと違って、自分軸から思考できる抑止力になる。与えられた制約・制限ではなく、自発のブレーキ。考える葦の端くれなら、なぜソレは起こり、どこに向かおうとしているのかを考える。おしきせの「ダメ」を受け売りで口にしたりしない。
 
 いいことだね。
 これまで流れに任せて声をあげてた無思考者は立ち止まり、振り返り、足元に目を落とし、流れを見つめるようになる。起源や水流、水質、そこに生きるものや飲料可能かどうかなど考えるようになる。
 
 マジョリティは個々の個性を押し流す濁流だったことに気づく。
 一歩、前に進んだ。
 
 問題は、この流れはどれだけ前に進んでも、新たな火種が必ず生まれてくることだ。それらをこなす下地として、今から考えることを深めておかなければならない。 
 

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