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寝だめカンタビーレ。

 早起きしなきゃならない前の夜は、よく眠れない。仕事なら、遅刻できないんだもの。遠足なら、置いてかれちまうじゃないか。緊張が気を急かす。急いた気持ちは睡眠中枢を針でつついて、覚醒が寝落ちを蹴散らかす。
 起床時間を逸すれば、目覚めの意味は地に落ちる。起きても、間に合わない。起床がお昼、なんてことには是が非でも陥ってはならない。朝ご飯はとっくに片付けられているし、温泉ならお風呂のお湯が清掃ですっかり抜かれてる。
 気を抜いてはいけない。明日の朝は寝坊できない。

 眠らねば、と意識すればするほど神経は昂り、眠りの敵となって眠りの前に立ちはだかって睨みをきかす。うまく眠りに落ちることができなくて、焦燥が時間と共に膨らんできて、焦りは焦りを呼び込んで、覚醒がどんどん巨大化していく。成長しゆくゴジラみたいにね。眠気が体からしゅるしゅる抜けていき、魚ならとっくに干物になっていることだろう。

 睡眠が足りないことで引き起こされる悲劇は悪いことに輪をかけて波及していく。冴えないは、ノロイは、トロイは、不調だは。それらがバタバタと不調の連鎖を引き起こし、ドミノのコマを倒していく。気がかりが気がかりを呼び、焦燥が巨大化し、空まわりもすれば、遠まわりにもなる。こんなことならきちんと眠っておけばよかったなどと、取らぬ狸の皮算用が空を切る。
 無駄で無意味な反省も眠れぬ夜の残滓、役にたたない時間を恥と練り合わせて上塗りしていくことになる。

 反動もある。よく眠れなかった日の夜は、蜘蛛の巣のように張り巡らされた緊張の糸が朽ち果てて、体を横たえると間もなく意識がシームレスに眠りのベッドに横たわっていく。永遠の眠りにつくように、意識下に意識が落ちていく。
 眠りは、落下だったのだ。現世にとどまれず、命綱の絶たれた蜘蛛は知覚のかなわぬあの世に落ちていく。

 翌日が休日だと幸いである。予定を入れていなければ、自然に目が覚めるまで寝ていられる。ぬくい布団は幸せである。かねてより、この世の楽園であった。

 眠れる日には、眠りたいだけ眠る。寝だめカンタビーレ。惰眠を鼻歌でも歌うように軽やかに貪ってみせる。近未来に起こりうる熟睡に夢心地、それはみまごうことなく幸せ色に彩られている。

 眠れるその瞬間を心待ちに、私はまだ覚醒の軌道上で空想ばかりを追いかけている。 

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