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イマジネーションの混迷ループが見据える日曜日夜8時。

「捨てたものじゃない」
 あれだけ真剣にIターンを考えていた小田允おだのぶが、移住のために溜め込んだ熊野周辺の資料をごみの日にまとめて出した。
「これで綺麗さっぱり」
 途切れたあとに「忘れられる」が続くのか「切り捨てられる」なのかはヴェールに包んだまま彼は胸の内にしまったけれど、そこに至った経緯と心情はその時、さほど重要ではなかった。差し迫った問題は、支払ってしまった手付金がキャンセル料として飲み込まれてしまう。300万円は決して少ない金額ではない。それを灯籠を川に流すみたいにして、いつもの冷酷な細い目で見送ろうというのか。

「金は巡ってくる。あとからついてくるものだ。だが運は違う。運をあとにまわすと手遅れになる」
 小田允が兼ねてより繰り返していた彼なりの世の摂理。今回もその轍に則って行動しているとでもいうのか?
 小田允は運を取り、金を捨てようとしている。彼を決心させた運とはなんぞ?
 次回『決潰 保井江やすいえ動く』をお見逃しなく。

 現代ドラマにしては時代ががっていた。小田允が手に入れようとしていた山間の別荘は居城に見立てるには300坪としょぼかったし、山城に見立てるにはロフト付き山小屋はあまりに見窄らしかった。それに、登場人物のわかりやすさも視聴者をおちょくっているとしか思えない。小田允に保井江ーー韻を踏んだ信長と家康でしかなかった。それに二人の力関係は、まさに戦国時代の均衡をそのまま踏襲している。

 世も末じゃの。乱世は国土統一に命を賭し刀を振り上げたが、現代テレビドラマ合戦の戦士は、実体を萎ませつつある生き絶え絶えの視聴率という亡霊に追われ、疲弊に声も上がらない落武者。戦えどあまりに実りの少ない合戦は、観る者の好奇さえ誘わぬ悪循環。

「とっくの美香しより動画サイト負けてるじゃん」新しい時代の新しい目は、古い時代の、しかも時代劇の骨格だけを抜き出して自己満足に陥ったアナクロニズムには見向きもしない。古家再生には興味を抱くのにリメイクのドラマに食指を動かさないのは、ひとえに偽物で塗り固められているからだった。
 脚本家のでっちあげたウケ狙いの貧相なストーリー、再現しようのないなんちゃって小道具で誤魔化した美術、役者の演技がうまければうまいほど、周囲の偽が愚として浮き立ってくる。

 そういうことなのだ。

 ところで小田允の掴み損ねてはならない運とはなんだったのだ? 歴史に糸口を探しても、納得の解答には至らない。もしかして、これからがドラマの真骨頂? 途中で観止めては後悔が立ち上がる?

 ああだこうだ一丁前に批評家めいた酷評を口にしても、ドラマの作り手にまんまとしてやられてしまう。次回『決潰 保井江動く』が気になって仕方ない、となる。

 ドラマを見る目にもう鮮度はない。観過ぎてきた満腹感からくる食傷なのだろう。だからずるずると鮮度の落ちたドラマという魚の料理法のほうを模索する。まさか制作者諸氏が、視聴者は「筋書きの裏読み」をしているのではないかと勘繰って、裏の裏の視点からトラップを仕掛けているとは思えないが、たまに渓流を泳ぐ魚をヒットするように、視聴者の食欲をそそって糸を引きにくることがある。

 水中に投じられた疑似餌に振り向けば相手の術中、食い付けば相手の手中。
 そんなことをことさら多層に考えている。まるで混迷のループみたいだなと思う。要は暇なのだ。

 さて明日は『どうする家康 第33回 裏切り者』。周囲には視聴脱落者がこぼれ落ちる滝のように飛沫をあげ続けている。現代の落武者は戦いに敗れた負け組ではなく、時間の無駄を省き自分時間を手に入れた内なる一国一城の主なのかもしれない。
 視聴率下降線の内側に居座る残された視聴者となった今、「まだ観る者」として稀有な存在に見られるようになったせいで、最近少し困っている。観るべきか、観ざるべきか。腹は決まっているのに迷ってみせる。要は相変わらず暇なのだ。どうもこうもしようもない。のぉ家康よ。
 チャンネルは明日8時PM、NHKに合わせられる。
 運命は、そこにある。

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