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潤いの監房生活ってなによ。

「檻」は人道的観点から「監房」と言い表されるようになった。ズロースでは時のアパレルにふさわしくなく、形態を変化させたようなものである。両者は共にプライドと見栄と尊厳という生地が潜在意識に埋まっている。

 監房は、懲らしめか、戒めか。はたまた隔離か。

『ザリガニの鳴くところ』で気にかかっていた漠然とした監房の姿が、最新事情として朝日新聞の記事とリンクした。海外の収監事情を取り上げた記事の写真は、いくつかのキーセンテンスを『ひらめき電球』のごとく喚起した。それらは、独房ならぬちんまりロッジであり、塀のインサイドではなく開放のアウトドアであり、草木もしおれるコンクリではなく多彩な生き方のガーデニングだった。「正月」といえば「カレーもね」と、投げかけられたひと言が何ものかを連想させるように、監房といえば青灰色の杓子定規、四角四面を思い浮かべる蓄積の既知を旋風つむじかぜさらわれた思いがした。置き換えていったものは、ダイバーシティ時代の無責任に手放されたあてのない可能性だった。
 これも人道的観点による時代の転生によるものなのだろうか。記事写真に捕捉されカメラ目線で顔の筋肉を弛緩した囚人たちは、偽りのない笑顔を浮かべ、誰もが幸せそうに見えた。
「これでいいのだ」。巨匠赤塚不二夫先生がご健在ならば、そのように声を挙げたかもしれない。それに対し矮小の小生は、巨匠のようには歌舞けなかった。なんか、こう、肯定のプラットフォームに滑り込むはずのレールの具合がよろしくないというか、錆が出て動きを鈍化させられているというか、しっくり「到着すべき駅」に入線できないのだ。 
 ひとつ軋轢の軋みから漏れ出した旋律を捕らえた。この監房の変わり身は、少なくとも進化と呼んではいけないと心の声は歌っていた。それは、あまりにも壁の中が快適になると、娑婆を捨てる者を多く排出することになると囁く。誰もがよき住処を求めると相場が決まっているならば、自然の摂理に従えば規律は逆流し始めるのだと。
 そうでなくとも現代における塀の外の働き蟻は、毎日の義務や業務をこなすのに躍起躍起どころかあっぷあっぷに陥っている。生活はギリギリスぎて、楽しむことを知らず、愉しめるだけ稼げず、こちら側で暮らしていても、八方塞がりの監獄地獄。
 なのに世界の監房事情ときたら、生きるために働かずとも日々の優雅が保障され、拘束されているのに縛られず、なんだか人間らしくやっている。
 
 塀の中の芝生が青く見えてはいけない。娑婆の芝生を、もっと青くしていかないと。

【カイア投獄『ザリガニの鳴くところ』】

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