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みんなの後遺症。

 罹患してないから関係ない、なんて早合点しないで。陽性になった人もならなかった人も、この3年でみんなが罹った病気がある。コロナの後遺症。ほらあなただって、コロナ前と比べるとずいぶん腰が重くなったでしょう? 街歩きに出かける『乗り気』も、茶飲み話に出向く足にも、重くなった腰が邪魔してる。

 長かった自粛が、みんなの意識を塗り替えてしまったんだ。自粛が明けても、元の暮らしになんか戻っちゃいない。みんなそのことにまだ気づいていない。
 自粛は能動的引きこもり(テレワークね)をある一定数固定化したし、家飲み派が「これこそあるべき姿」と賞賛し、根を張った。街のネオンに人は再び群がり出したものの、贔屓目に見ても歩留ぶどまりは決して芳しくない。
 コロナ後、人は他人から距離を置き、自分にとって何が心地いいかを個の中に探り始めた。個人主義対集団主義でいえば、個人主義の比率が確実に増した。これは集団主義国家日本にとって喜ばしからぬ状況ではあるまいか。集団主義の最たる大企業ですら出社不要の能力主義を推奨し始めたものだから、転がり始めた鉄球はもはや誰にも止められまい。自業自得か、自暴自棄か、効率化の目眩めくらましに大事なところを見過ごして、遠からぬ日にやってくる大崩壊、大崩落に驚愕の目を見張るに違いあるまい。

「群れるの、かったるい」 語られなくても聞こえてくる。
「ドタキャン、悪いね」 罹患は言い訳? それでも通用する天下の宝刀、水戸のご老公の威光の印籠。
 それもこれも、腰を重くした後遺症のせいなのさ。

 始まってから、コロナ後を憂う人がいた。もう二度と元の暮らしには戻らないのだとくぐもった目で暗い未来を見上げてた。未来永劫、奴らと付き合い続けなければならないのだと。

 ところが、だ。奴らの猛威は失速した。飽きた感もある。「もういいよ」といった具合にね。そして見事に自粛は明け、人は、世は、解放にわいた。あちらとこちらを隔てていた壁が取っ払われたことに狂喜した。ベルリンの西と東がハグし、キスを交わし合ったみたいにね。そして、あれはもう終わったんだよと、手のひら返して、手放しに喉元をやり過ごした。
 だけどそのやり過ごしたはずの熱さは、なくなったわけじゃない。まだ燻っている。

 人は他人と関わる煩わしさに気づいてしまった。これこそが奴らが刷り込んでいった後遺症。軽かったはずの腰を重くした主原因。

 もう元の暮らしには戻れない。高速で飛ぶ水平移動の物体に小惑星が接触すると、軌道はいくらか変わってくる。接触当初、その差は肉眼では確かめようもないほど微細だ。だけど遠い未来に到達する着地点は、もう思っていたところではない。当初の目論見から大幅にズレている。
 二度と元には戻らない。元には戻せない。これからの暮らしにずっとつきまとって離れない厄介な後遺症。

【「家から出してあげないんだもんね」CORONYAN】

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