隣人が知縁・血縁だとしたら。
大人になるって、どういうこと?
大人は「人は多様。それぞれの個性、特性を認めなさい」と説くけれど、大人が駄々をこね国境を越える現場を見てしまった。
あれ? 個性、特性、互いに認め合わなきゃいけないんじゃなかったっけ?
そっか。大人の顔で多様を説く大人は、大人の壁で内面の多彩な思いを囲ってしまっているんだね。そりゃあ、大人になるまでいろんな経験してきたことくらいわかっちゃいるさ。そこに矛盾や葛藤が混ざっていたって、誰もそいつを咎めはしない。大人の味は、甘辛酸っぱい苦い、そのうちのどれかひとつに収まるなんてことはない。微妙な味付けなされてて、繊細な妙味を醸してる。仕事が好きでありながら、仕事が嫌いな自分を鑑みれば一目瞭然だったのさ。大人には、人にいい顔する顔と、人様に見せられない裏の顔とが濃淡それぞれ多彩に備わっている、ということだったんだ。
大人になるって、そういうこと。
でもねえ。あれはないよねえ。そこに家族や親類や友がいたら、あんなことしなかったよねえ。知縁(地縁のもじり)・血縁、そうした人たちが隣国にいたら彼ら彼女らが堰となって、歯止めになっていただろうに。
人って、同時多発的に世界のあちこちで生まれたわけではないのでしょう? わたしたちホモサピエンスは、今は枝葉が70億を超えたけど、元は1本の幹だったわけでしょう? かつてメディアから聞こえてきた「人類みな兄弟」というフレーズは、倫理観を喚起する投げかけではなくて、科学的根拠からくる人類の成り立ちを伝えたかったのかもしれないよ。
人類がすべて「我」と関わっている兄弟姉妹であるならば、みんな、抱きしめてあげなければ、なんだもんね。
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