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 アナログな絵はあまり描かない。描かないことはないけれど、いわゆる絵画と呼ばれるたいそうな絵は描けないから、いっさい描かない。だけど、描く姿を思い描くことはよくある。
 水彩描くなら、と考える。構成は絶対的優位性をもっていて、いちど確定すると変更は効かない。潔いけれども融通がきかない。
 油絵なら、と考える。ひととおり遠景を書いてから少しずつ手前のものを遠景の上に重ねていく。中景として描いた遠景手前の樹木、その向こうには最初に着手した湖が描かれている、そうした現実が、平面の絵画を立体的に浮き立たせる。
 ただし重ね描きされた景色は、描いた本人にしか見えていない。
 水彩と違って絵の具の量も半端なく多い。

 絵の構成についても考える。画法に走ってしまうと作品全体のバランスを欠いてしまうことになるからだ。
 心のままに、後先考えずに筆を走らせてみたことがある。すぐに行き詰まった。不用意に筆を進めていくと、限られたカンバスがいきなりとらえどころのない大海と化して漂流する。幾度かそれで失敗して懲りた。
 懲りてるはずなのに、未だ同じような過ちを犯してしまう。完成させるわけではなく、ささっと筆を走らせるということが。
 それには実は訳がある。正確には、無謀な一閃をカンバスに走らせているわけではない。以前の「なんとなく描いてみるか」のケ・セラ・セラとは違って、一刻も早く閃きをとどめるておくために。その瞬間にとらえておかないと、後悔してしまうものがあることに気づいたせいだ。崩れゆく吊り橋の1枚ずつ剥がれゆく板をうまく渡り抜かないと、眼下に流れる川に真っ逆さまに落ちていく、だから逃げ切らなければーーそんな脅迫感に迫られてのこと。
 文章も同じ。アイデアは閃いた時点ではまだ形になっていない。絡まった糸屑が単に丸まっているだけの代物は、現れた瞬間に素手でつかみ取っておかないと、金魚が掬い網から身をかわすように逃げていく。だからと言って立体物をそのまま二次元記録装置に写し取ることは、iPhoneの最新カメラにだってできはしない。抽象物を写真で撮れたら、現代社会は心霊写真の書庫にぶち込んでおしまいとする。抽象物を具体的に展開するには素早く紐解きならぬ糸屑を解き、文章に変換する必要がある。変換したうえで記録する。手間をかけると消えてしまうから、手早くやっつけなければいけない。時間との戦いだ。思い悩むと時間が無駄に流れ、金魚はするりと逃げていく。

 忘却は、閃きが消えゆく融解点に記録が追いつかないことによって引き起こされる世界の悲劇だ。人類の財産の喪失だ。先にゴールを越されてしまうと、書きとどめておきたかったはずの塊が、燃え切った固形燃料みたいに跡形もなく消え失せる。しばらく熱は五徳にとどまるけれども、それはもう魂の抜けた幻。しばらくすると、そこにアイデアが閃いた現実さえ忘れ去られてしまう。

 描きとどめるも書きとどめるも、時間との勝負。思い立ったが吉日だなんて悠長なことは言っていられない。単位は1日ではなく、一刻を争うのだ。でないとアイデアは、記憶に縦横無尽に走った亀裂から、金魚のように逃げていく。
 アイデアはいったん亀裂から抜け出してしまうと、二度と戻って来ることはない。足取りさえつかめない。

 せめて走り去るものの裾さえつかめていれば。割った陶器の貯金箱でさえカケラを残しておけたなら在りし日の丸々と太った姿を思い出すことができるように、闇に逃げたそいつを引き出せる可能性が残される。だから、閃きは秒を争ってとどめておかなければならない。端切れだけでも記録しておかなければならない。そのようにして、閃きは現れたタイミングで、消え失せる前に描き、そして書きとどめておく。

 絵も文も、構成は大事だ。テーマにそって仕上げられるかどうかを検証し、そのうえでバランスをとっていかなければならない。そして構成するうえで重要になってくるのがひとつひとつの構成要素。それぞれ奥深く奥ゆかしくなければ深みは出てこない。その構成要素をこれまでチャリンチャリンと日々貯めてきたわけである。

 昨今、構成要素が貯まった手応えを感じている。次のステップでこれらを配置して構成段階へ、となれば幸せなのだが、いかんせん、構成能力の養成もまた次のステップで待つ課題なんである。

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