空まわりの願望。
「こんなこといいな できたらいいなあんな夢 こんな夢 ……
…… かなえてくれる」
人は願望の“息をする者”。
「願い続けていれば、夢は叶う」を信じてる。信じてみたいな、と願ってる人も多くいる。
手塚治虫先生の描いた夢の世界は、願望のトレース。ラフ書きにペンが入れられ、息をし始めた宙を駆けるプライベートな乗り物は、読む者の魂を震わせ、ついには紙とインクの世界に閉じこもっていたはずのソイツを、この世に引っぱり出した。
願望は、平穏無事なモノトーンをバラ色のファンファーレで切り裂き、得体の知れない鼓動の正体に迫らせようとし、色彩のシンフォニーで背中を押してくる。
それは息を呑ませ、はっと見開かせるヴィジュアルの箴言(しんげん=格言)だ。
在りもしない天空の城を夢見させ、立ち上がらせ、いずれ誰かが手を伸ばすようになり、その誰かの脳細胞を沸かせる。
ところが、だ。
願望に突き動かされた者は多かれ、少なからず、紆余曲折右往左往のドツボにはまる。這い出そうともがき苦しみ、その末に息絶える者もいる。
いや、ほとんどがいったんは息絶える。 息絶えると、死んでしまった者たちが蠢く挫折の領域に放られてしまう。
暗く深く、見えず動けず、硬直した世界。
だがごく稀に、そこから再び息をする者の領域に目を向けて立ち上がり、歩き始めようとする者が現れる。そうした者には可能性の称号が与えられる。
人はイマジネーションの“息をする者”。
そのイマジネーションには触手がある。想像の力を逞しくすればするほど、触手は伸びていく。 増殖する網目のように。
巡らされた網の先は精一杯の指先で誰かと繋がろうとする。ふれた指先が共鳴することで、さらに伸ばして手を結ぶ。
このようにして想像が人と繋がり広がっていく。 夢が走らせたペンは、乗り物を現実社会の空に飛ばせただけではなかった。今や人と対峙するロボット、アトムさえ生み出そうとしている。
「こうあればいいな」という願望は、芽を息吹かせるタネ。実現していない現実を想像したところに、そのタネが埋まっているとされる。 願い、想像は、文化文明開拓史の原動力。
のび太を侮ってはいけない。あれだけ原動力に満ちた男はいない。
ドラえもんだって、もしかしたらのび太の願望の産物、ってこともあり得ることだし。
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