抽象画ジブン。
絵も音楽も文章も、心模様に投影する心象のスイッチだ。眼前でぱっと点滅し、通り過ぎれば消えるはずなのに、残る。
残っているはずだから覚えていそうなものなのに、実のところ、覚えてはいない。残っているのは、ほら、目の者、耳の者ではなく、心象風景のほうでしょう?
意図はものの見事にアナタを罠にはめている。
ユドヴァルト・ムンクの『叫び』を思い浮かべてみるといい。絵を前にすると、多層に混じり合った畏れの束がむにゅむにゅと胸元まで伸びてきて、手品でも見せるように眼前で宙返り、衣摺れを刷り込みながらもったいぶってみせるも束の間、直後、胸ぐら掴みにかかってきて、ぐいと引く。その有無の言わせなさといったなら、まるでケモノ。目撃者は、嵐にはためく旗みたいに、抵抗の隙すら与えられずに連れ去られる。
向かうは、油絵の具を隔てた“うまく捉えられない者たち”がさすらう黄泉。
絵画の向こうには、これまで出会った風景という人たちや、固められた怒りの紅潮や、どん底の死んだ目や、心を射抜かれて胴体の空洞に虚空を露わにする静止画の風景が、木立ちのように、墓石の群れのように、釈然とせず、整然を押しつけながら蠢いている。
心象は強烈で、雄弁だ。
心象に比して、絵の微に入り細に入りはどれだけ残っていよう?
物語の主人公然と君臨している彼女は、恐れ慄いているようで、表情は飄々としていなかったか? 口まわりの造形は朧げながら見覚えていても、目は? どんな目をしていた? 服は? 何を着ていた? そして彼女はどんなシチュエーションに立っていた? そしてその姿は自立していたか? もたれているのではなかったか?
はたまた傍観者は? 同じカンバスで何をしている? その顔つきは?
ほらね。
あんまり覚えちゃいない。
心象はあれだけ饒舌なのに、絵画の具体性になると急に無口になる。
絵も文章も音楽も、スイッチのゆえん。
絵は心模様に投影する心象のスイッチ。
音楽もしかり。
文章もまたしかり。
スイッチは、向こう側のトラップへの導き。
読んだら最後、見たら最後、聴いたら最後のオボシメシ。仕掛けた者の思惑に、ものの見事にはめられている。
何を投影するか。
そろそろそのことに目が向いてくるころだと思っていたよ。
でも、すでに薄々とでも気づいているはず。
それはデカルトが開き、ユングが伸ばした道と具体性を一にする。
抽象化されたアナタジシンにほかならない。
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