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微調整人生。

 忙しいうちは、時間を自由に使えたら、旅行に行って、美味しいもの食べて、観たい映画を選んで、ピアノを弾いて、などとあれこれ夢を膨らませる。自由な時間は希望そのもので、温泉にも夢を馳せるし、船旅もそろそろいい頃合いかもしれないとほくそ笑み、夢に向けて虹の架け橋を伸ばしていく。
 早めのリタイア、俗世間とは一線を画した生き方ーーそれにはお金が必要で、アフターのために生活基盤構築、あくせく汗を流して働いて、土台作りに明け暮れて。下準備が整ったら、地球で生きるしがらみにさよならして、20XX年自由の旅へ!

 でもさあ、いざ社会からぽんと抜け出したとして、さて、やりたいことをやりましょうとなったとき、ホントにやりたかったことに着手するかなと疑問を抱いた。やりたかったことの真相って、くゆらす煙草の煙みたいなものじゃなかったか、と思ったわけでして。多忙に浮かんだ夢物語の数々は、手で払えば宙にたちまち溶けて消えていく、そんな思いにとらわれた。
 仮に、やりたかったことに片っ端から手をつけたとしよう。あれほど「あれをして、これもして」と、あたかも無尽蔵に湧出するように思えた欲望は、紐解いて目の前につらつら書き連ねたら、案外限界は早くやってくることが見えてきて、底をつくのも時間の問題だと気がついた。着手した事柄はあれよあれよという間に終わっていって、こなしきったら? そのあと何が残るだろう。

 やりたいことが終わったら、ぽっかりしちゃうんじゃないのかな。

 そもそもやりたかったことって、全部、社会の中に収まってるものなんだ。社会から抜け出して好きなことをしたかった欲望は、ここで自己矛盾を抱えることになる。

 では、視点を変えて、時間ができたら好きなことをして生きる、としてみよう。社会に組み込まれた事柄から好みのものをつまみ食い。これならいけそうだ。
 中には好きなことをして社会で生きてる人もいそうだけど、ほとんどの人は、好きなことと生きるためにしていることは軌を一にできない。それでも二律背反を抱えたままえっちらおっちらやっていかねばならぬのだ。精神によぶんな負荷がかかるものだから愚痴が出る。愚痴は現実回避の雄叫び。個人に宿る甘えの身侭。あくまでも個人的なものだから、愚痴は聞くのも嫌だし、口にするのも憚られる。

 ならば、愚痴のない世界へ! 
 ……。悲しいかな、そいつは難しい。愚痴のない世界に生きるというのは。

 美味しさは、まずさがあるから気づくもの。愚痴は、いい思いがあればこその排気ガス。好きなことしていい思いをすれば、もれなく愚痴があとからきっちりついてくる。

 ま、社会に関わり合いながら生きていくと決めたから、愚痴ともじょうずに付き合ってまいりましょうか。好きなことをして生きるーー悟りの境地に少し近づいたつもりになって、今日もまた生の一本道を微調整しながらやっている。
 
 これもまた愚痴のうちですって? まあ、そうおっしゃらずに。

【考える人、考える猫、考える満月。みんな何かしらを考えてると思うと感慨深い】

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