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チューニング。

 みんながいいと認めるものはたしかにいい。好き嫌いはあるにせよiPhoneはよくできているし、八ッ橋は息の長い京土産だ。
 みんなが持っているから私も、となると話は違ってくる。いいものの磨きのかかった煌めきは残るが、見栄は磨けば削れていくだけだ。
 
 みんなが顔をしかめる先に52がいた。汚れて匂って伸ばしきった髪の女の子は、Tシャツをひん剥いたら痣だらけの男の子だった。身内として許せない血縁者は、切っても切れない血の繋がりを嫌い、断ち切るように手をあげる。
 
 またしても読中感で恐縮なのだが、『52ヘルツのクジラたち』は「みんながこうしている」土地に放り込まれた一人の少年と、都会での繋がりを断ち切って移住してきたキナコと呼ばれる女性との波長を調べる物語。波長は遠くにあって、時に近づき、近くなりすぎて通り過ぎ、振り向いて襟元掴んで引き寄せたら倒れちゃって、歩み寄りの途中で穴にはまって底に落ち。そんな感じで、チューニングに細心の注意を払いながら音を探っていく。

 本は、読み始めてみないと良し悪しも物語の筋もわからない。タイトルだけで妄想するあらすじは、読み始めれば物の見事に裏切られる。その裏切りは、好奇の芽を大きく伸ばす。
 だって、思った通りの展開だと、読む意味ないもんね。裏切りに胸をときめかせながら、期待に輝く目で文字の海を往く。
 キナコは海を見下ろす小高い平家に住んでいる。文字の海を通して、彼女の見た海を見る。消えた52が、ページの裏側に隠れていたりする。

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 ノンブルは50とある。航路はまだ序盤。
 いつものことながら読後感はなし。これから読む人に台無しは禁物だから。

 本屋大賞に輝く本は、みんながいいと言う。
 がつんとした骨太を求めたら直木賞、文壇の迷走を遠目から鼻で笑うなら芥川賞。本屋大賞はいつだって「読んでおもしろい」という抽象的な空集合に追いやられるけど、傾向というか波がある。
『流浪の月』にしても『僕は線を描く』にしても、「運命的な孤」があって、そこからもがき出るみたいな。その有無を言わさぬ腹の底から湧き出す脈動に、ぐっとこう、掴まれるみたいな。
 自粛で孤独で、でも誰かと繋がりたくてという思いを突いてくる。
 生きる脈動に喉の渇きを埋めようとする傾向は、なにも感染リスクに始まったわけではないのだけれどもね。今の時代に生きる人は都市部では孤立し、僻地では過疎で孤立し、中途半端な地方都市ではシャッター下ろされ孤立が浮石みたいに広がっている。
 だから日本のあちこちから、誰かの手を探していろんな人が手を伸ばしている。共通の波長で繋がろうとしている。
 このようにして人は時代に波長を合わせ、本を選んでいくんだね。

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