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【二輪の風景-18】舞う。

「怖いと思っても、あとには引けないことってあるでしょう? 覚悟を決めなさい。バイクにはこうやっていろいろと教えてもらってる」と言って彼女は、上から見下ろすと絶壁にしか思えない窪地に向かって突っ込んでいった。
躊躇とまどったら100パーセント転倒しちゃう」それから彼女は「タイヤの接地を保持しながらすとんと地上に降りる感じ」と要領をかいつまんで教えてくれた。

 すとんと降りる感じだって? アドバイスは的確なのだろうと思う。だからイメージはできる。だけど彼女の言葉を深く探ると、妙な感じがする。すとんと行くことは落ちることだし、降りるのなら舞うように降りなければならないんじゃないの? 相容れない言葉を組み合わせることで、彼女はじょうずに理解の背中を押す。 
 いつだってそうだ。彼女は人に話す時、文法を無視してギミックで相手をケムに巻く。脇の甘いところから攻め入り、信玄を彷彿とさせる風の如き速さで内側に切り込んでひと思いに殺す刺客のように、理解に戸惑う躊躇とまどいを仕留める。その手腕は柔軟だけど剛腕で、語り口は優しいけれども、やり方はねじ伏せるのに近い。羊の皮ならぬ子猫の着ぐるみをまとった詭弁家なのだ。それでも、感情の真意を伝えにくい杓子定規な言葉をあえて崩す彼女流のレトリックは、「なんとなくわかった」ような気にさせる術に長けていた。
 そのようにして彼女は実行するのに難易度の高い課題をいとも簡単なことのように口に出し、実際にいとも簡単にお手本を示してみせた。
 だけど僕は彼女のように蝶のように舞って蜂が狙った1点を狂いもなく刺すみたいに着地することはできない。蝶のように舞ったつもりでもバタバタあがいてしまうし、蜂のように刺したと思っても、現実は刺繍針は自分の指に刺さっていて焦点がずれている。うまくいく姿をシミュレーションできても結果がついてこないものだから、僕はいつしか自分に期待することをしなくなっていた。

 ダメなものはダメ、できないことはできない、だからやらないと強く念じても、地獄直結みたいな斜面は視界から消えてはくれなかった。
 途中、怖くなってブレーキをかければ車体は斜面で前のめりに回転し、ダイナミックな転倒劇をお披露目することになる。急斜面では前方に90度ほどまわれば体はバイクから放り出され、地面に向けて真っ逆さまに落ちていくものなのだ。
 かといって恐怖に負けて坂道から逸れようとすると……。つまり坂の途中でハンドルを切ってしまうと、落下速度に抗えない車体は横倒しになって、やはり頭から地面にダイブする。いずれにしても結果は同じ。やれば、必ず後悔への道が拓ける。

 怪我をしたくなかったら、エイヤッの気合いひとつで一気に駆け降りるの。わかった?
 怪我をしたくないから、やらないって選択肢はないの?
 なし!

 こちらからの提言は却下され、初志貫徹の彼女のアドバイスにイエス、こくんと頷いたけれども、それは彼女が有無を言わせなかったから。感情は罠に足を取られた狐のごとく、拘束から逃れたい一心でもがき苦しんでいた。

 バンジージャンプにしたって一度たりとも挑戦したいと思ったことがない僕にとって、命綱のない落下は自殺行為そのものでしかなかった。車重100キロを超す鉄の塊ごと、窪地に落っこちていくなんて誰が考えたって正気の沙汰じゃない。今になって僕は彼女の誘いに鼻の下を伸ばし、ついモトクロスの試走会に「行くよ」と答えてしまったことを後悔した。

 斜面の上から下をおっかなびっくりのぞきこむと、スキーの上級者コースにいきなり連れて行かれた幾シーズンか前の冬を思い出した。あの時、斜面の下をのぞいた僕は、そのまま引き返して上級者コースまで上がってきたリフトまで引き返そうと決心した。だけど振り返ってリフトの降車位置を確かめて愕然とした。50メートルほどしか離れてはいなかったけれども、その行程がすべてかなりの上り勾配だったのだ。
 下るも地獄、カニ歩きで上るのもまた地獄だった。だから仕方なしに上級者コースを斜滑降で斜めに滑ってはコースの端っこでUターンし、うまくいかずに転び、立ち上がってはまた斜滑降で、を繰り返し、やっとの思いで下りきったのだった。
 バイクなら「やーめた」の決断で踵を返して戻ることができる。たとえ引き返す道が上り坂でも、エンジンが気の抜けた気持ちの背中を押してくれる。はずだったのに。
 窪地まで降りて一周してきた彼女がすぐ後ろに戻ってきていた。顔はにこやかだが、通りゃんせの仁王立ち。それだけじゃない。細めた目で顎を突き出し、薄ら笑いを浮かべている。眼力は「いくじなし」と語っている。
 ひえ〜。前門の虎、後ろには狼が手ぐすね引いて待っていた。
 Uターンなんてできる状況ではない。
 虎でもなく狼でもなく、猫くらいなら強行突破もできただろうが、そうはいかない。彼女がライオンでなくてよかったと思わざるを得ない。だって、虎も狼も、門の向こうで待っていてくれるものでしょう? ライオンだったら容赦なく迫ってきて我が子を谷に突き落とす。逃げ道はない。と目を閉じた刹那。
「行きな。男だろ」
 ケツを蹴られて哀れな子ライオンは谷底に向かってジタバタと落っこちていったのだった。

「いい思い出だったよ」と僕は言った。今では山越えのジャンプもこなせるようになっている。撮ってもらった映像を見て反省会で偉そうなことを言えるようにもなった。
 だけど不思議なことがある。ジャンプで飛んでいるのに、宙を舞う感覚がまるでない。バイクに乗車した感覚のまま、車輪だけが地を離れて舞い上がっている感じなのだ。
 飛べば視点が上がるから景色は変わる。地べたを走っている景色とは明らかに違う世界が現れて、上空の者となる。だけど、一般的に言う飛んでいる感じがしない。着地時の衝撃が、空中戦の終わりを告げ、浮遊が現実だったことを教えてくれるだけで、地を蹴り浮き上がる感覚も滞空感覚もない。
 空を飛ぶとは、もっとふわっと舞う感覚があるものとずっと思っていた。
「当たり前じゃん」と彼女がチャチャを入れてきた。バイクは地面を蹴って前へ前へと走れても、浮力は生み出さない。鳥の羽みたいに車体の左右に主翼をつければ飛べるかもしれないけど、バイクは地道に我が意志で大地を走る乗り物だからね。バイクは、空中をも地に足つけて、あ、タイヤをか、走って駆け抜けるものなの。私にだって飛んでる感覚はないわ。着地して、それまで滞空時間があったことに気づくというのも同じ。でもね、その感覚が大切なの。
 最初、ジャンプで飛べる距離はたかだた何10センチ、数センチかもしれない。それしか飛べないわけよ。怖いから。でも、走る感覚がレベルを上げていくと、高く遠くへ走っていけるようになる。それは、自分のキャパシティを広げていくことでもあるの。
 君も少しはうまくなった。だけど、その進歩にはまだまだ先があるのよ。そのことを忘れないで。

 彼女の駆ける道は僕の走るコースよりもずっと高いところにある。

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