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煩わされは存在の素。

 煩わされたくないことってある。食事を盛り上げる陶酔の会話の最中にかかってくる仕事の電話とか、通い慣れた道を迂回させられる突然の水道工事とか、人の弱みにつけ込んだプリペイドカード・プレゼントというエサに釣られてつい誘導されちまう広告動画とか。
 今は遠回りなどせず、まっすぐ行きたいんだぁぁ! という無垢な推進力に押されている時に限って、突風のごとき横槍が入る。
 人は社会というレストランで調理されながら生きていく素材みたいなものだけど、だから調理されずにいられない存在なわけだけど、素材であると同時に人は考える葦でもあるのだよ。意思のひとつやふたつは持っている。「これする」「あれしたい」と、ささやかな唯我独尊の我を通したいことだってある。

 社会の一員である限り、わがままを通しきれないことくらいわかっちゃいるが、それにしても横槍の入り方が尋常じゃないほど横暴すぎる。まるで生きていくうえでの対価を払えとばかりに、当然の顔をして、ふてぶてしくもやってくる。
「スマホ、ないと困るでしょ? でもスマホには目に見えないところで血の滲むような苦労があって、やっと世に出て、それでいて、開発の産みの苦しみと開発費の出費なしにわずか数万円、十数万円で手に入れ使いこなしているのだから、当たり前の対価でしょ」とばかりに、平然と個人の時間を抑えにかかり、心の隙間に入り込んでくる。
 煩わされたくないことってあるんだぁ! と叫んだっておかまいなしにそいつらはどかどかと土足でやってくる。

 いやなに、不平不満を言いたいわけじゃなくってさ、生きるうえでの哲学を、多重奏人生の極々小さな一面から覗き込んでみようってわけなのさ。

 我煩わされり、故に我社会に存在し得り。真理だと思う。

【人の数だけ『我が道』があって、交差しあって社会が出来上がっているんだもの。まっすぐ進もうだなんて、なんて無謀なことを考えていたんだろう】

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