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詐欺メールが増えた昨今、思うこと。不勧善懲悪。

ここのところ、危ないメールが心なしか増えたように思う。
危ないメールとは、フィッシングだったりマルウェアだったり。手を替え品を替え、あの手この手で、よくもまあ無尽蔵にアイデアが出てくるものだと感心する。
毎夜、知恵を絞り続ける黒い影しか見せないどこぞの誰かは、鋭利なメールを送信した裏側で、ニタリと白い牙をのぞかせているに違いあるまい。

悪巧みを考える者もまた生活者。

鬼滅の刃にしても昨今の物語は、悪いことをする者にも「そうせざるを得ない」致し方ない理由をあからさまに見せてくる。裏事情を鑑みれば無碍にもできないと思わせ、漣立たせる入り組んだ個々の人生に、思慮と眉間のシワを深く刻ませるわけだ。
各者各人の諸事情が複雑に入り組み、脆く支え合ってやっとのことで双方が立っていられる現実の投影だから、説得力がある。
私たちはもう、勧善懲悪をはじめとする、わかりやすくも、ありえない虚の物語は虚であることを知り、飽き足らなくなってしまっているのだ。

作られた物語が現の世の投影であり、人の世はそれ以上の混濁極めた独自色の坩堝と気づいているはずなのに、それでもまんまと罠にはまってしまう人がいる。
それは如何ともしがたいものなのか? 
罠を張る者の意識のほうがはるかに高く、腹の白い者たちのお人好しが喰らわれてしまう構造は、もはや変えようのないものになってしまっているからか?

人はときに、貧乏くじを引いてしまった運に見放された境遇に「騙されるほうが悪い」と、騙された者を慰める。
騙された者をかくして否定することで騙す者を間接的に肯定してしまうものだから、いつまでたっても騙す者があとを絶たない。

それでいいのか?

個人的には、騙す者のいない世の中のほうが、ずっと明るくなるような気がするのだけれど。

そうは思うも、すぐに揺り返しが去来して。

複雑な心境がリフレインされ、物事がさらに複雑になっていく。新たな多重奏協奏曲が触手を伸ばしてきて、がんじがらめに絡みついてくるようだ。

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