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社会の臍の緒。

 近所付き合いが生きていたころはよかった。ニートになろうがリタイヤしようが、世話焼きおばさんと意地悪爺さんがなにかと絡んできて、否が応でも社会とつながっていられた。
 だけど核家族が加速して自室暮らしが当たり前になった各家族は、お茶の間団欒時間を拒絶するようになり、個を生の第一義と据えた。おかげで出番を無くしたテレビは肩を落とし、リビングから『暖』が去っていく。

 障子に穴をあけプライバシーの覗き見に命を賭した噂好きは断熱材に行く手を阻まれ、聞き耳を立てようとする不届き者は遮音壁になす術もなく白く燃え尽きた。文化文明の『暮らしに便利なものたち』もまた、家族内の断裂に加勢する反係属勢力であったのだ。
 
 現代の生き人いきびとは、多事多端に怱忙で、倥偬に隠棲を求めがちになるけれど、社会との縁ははたして断ってよいものなのか?
 
 断てばたちまち出でたる多量の煙。包まれるは浦島太郎ばかりではない。
 
 人は生まれ出でるとき臍の緒を断って社会につながるものと信じ込んでいたけれど、振り返ればおおいなる勘違いをしていたものだと気づくにいたる。なんてことはない、世間に生かされるパイプラインは、社会とつながる臍の緒そのものじゃないか。姿かたちを変えて出現する、第二の臍の緒。養分を受け取りつづける管は、一生涯ついてまわり切れることはない。
 
 断ってしまえば、とどのつまりは絶たれてしまうことになる。絶たないために断ってはいけない。そう思う。

 チョッキン。
 どこかでまたひとつ、不用意に断つ音が聞こえた。


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