見出し画像

「解釈」だけでは何かが違う。その先にあるもの。

子どもだったことを忘れると大人になり、猫だったことを忘れるとドラえもんになる。
三谷幸喜氏は映画『記憶にございません』で、中井貴一氏演じる主役に、都知事であることを忘れさせた。

で、なにになったかというと、政治家になった。
政治の場は『平成ぽんぽこ』ではいけない。本物のタヌキなら腹を打って笑いをとるが、永田町のタヌキは影の風呂敷にくるまったイケナイモノを受け取って、イケナイコトをなかったこととして手を打とうとする。

これでいいのか?
に対する解答を、三谷幸喜氏が示したというわけだ。

そういえば昨今、正義が主張し始めている。

片桐竜次氏も『相棒』で、署長という立場から馴れ合いの組織にお天道様の光を浴びせようと躍起になっている。利権で意のままという構造の裏で結ばれる手を、チョキンと遮断しようとしているわけさ。

正義の覚醒だ。

それがすぎて、イビツなカタチで人心に広がり始めている。
おのおのの心がそれぞれ胸の内にしまっているうちはいい。時に口が出る、行動に出る。

「ノロノロ走りやがって。交通の迷惑だ」で意地悪に走るのも、もしかしたらソイツなりの正義なのかもしれない。
先般、投稿させていただいた、駅員に気遣いを強いる怒れるおじさんも、未熟者への警告だったかもしれない。
気遣い強いるおじさんは、後ろに並ぶ順番待ちに微塵も気を遣わなかった。

画像1

彼らの正義は、何かが違う。

間違う人は、理解していないのだと思う。
自分なりの解釈で我を通してしまうものだから、調子が合わない。ボタンのかけ違いが地盤の亀裂につながっていく。

自分とは何者? と問いかけることを忘れて(棚に上げて)他者を責めると、「お菓子買って」とジタバタする子どもと変わらなくなる。
子どもだったことを忘れても、子どもになる。

気をつけなくっちゃ。
自戒を含めて、今考えていることがわがままから発する「解釈」なのか、共通認識の「理解」なのかを判断していくようにしなくっちゃ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?