ドライブ・マイ・ウィル(Drive my will)
感じ方はそれぞれでいい。
『ドライブ・マイ・カー』を観た。折り畳まれたいくつかの短編が、運転する車の主旋律上で、一条の光を受けながら、ぱらぱらとめくられていく。書籍はコンパクトにそれぞれの物語をシュリンクしていたというのに、川面に出現する陽光が生みだす光の魚の影のように映画で短編は分解され、旋律の主軸にまとわりついていた。
どの物語も、生々しく痛ましく、辛い。
ゆるく濃厚な時間が淡々とつづいているはずなのに、どうやら時間軸をうまく組み入れられなかったらしい。長丁場のはずが、一気に映画鑑賞時間が終わった。それは高速道路で速度超超過ほどの速さで流れ星となった錯覚を喚起し、『天気の子』で天空に溜まった雨水が降雨の予定を返上し、雨水貯水槽をひっくり返したほどの勢いで落ちてきて、脳天に差しかかったと思う間もなく爪先までびしょ濡れにしていく衝撃とどこか似ていた。
受賞の場での評判はすこぶるよかったのに、公開されてからというもの、いい噂は聞いたことがなかった。どうしてなのかが謎だった。観終えて思ったことは、すでに賛否両論が存在していることをふまえての、無難な結論だった。正直に書くと、驕っているように見られてしまう。だから。言いたいことは主人公が最初そうしたように(あとで後悔することになるにせよ)、寡黙の貝に閉じ込めておいたほうがよい。
感じ方はそれぞれあっていい。「よかった」と言えるモノに、人に、作品に、出会ったときに嬉々とする自身を遠目から見守ることができればそれでよい。
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