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仮想拡張解釈。

 なぜ渡らないんです? こころの声で、信号待ちの老人とその娘らしき二人連れに訊いてみた。
 こころの声に応えた空想現実の二人が答える。
 だって信号が赤ですもの。
 でもそれは、車用の信号ですよ。歩行者用はここにはないんです。横断歩道があるだけ。渡れる横断歩道なんです。車が路地から現れても、車のほうが歩行者に道を譲らなければならない、そういう道なんです。
 心の声は饒舌だったけれども、思いはひとつも大気を震わせない。
 
 渦を巻く思いを左右に押し広げ、車用信号が青になるのを待つ二人をおいて僕は横断歩道に踏み出す。
 目の橋が、歩道を渡り始めた僕に慌てふためいた娘の顔をとらえた。
 
 その後は知らない。もともと後ろに目はついていなかったし、振り向くことをしなかったから。

 人は思考の拡張器だ。僕はこの小さな頭であれこれ思いを膨らませ、娘もいろんなスイッチを刺激され、思考を広げていった。
 
 老人は、口も表情も止まったままだった。これまでの人生であれこれ考えすぎてきたせいで、息を吐き出し切ったあとみたいに、もうこれ以上考えることはできないとでも言いたげな止まり方だった。

 だけど、娘が何を考えていたか、老人は何も考えていなかったか、本当のところは何ひとつ知らない。

【「車用信号が赤だから渡らない」というのは拡張解釈なんじゃなかろうか】

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