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アナタが悲しいと誰かも悲しい。

 岡敷にとって初めての万年筆だった。へへ、インクは朝、学校に来る前に入れてきたんだぜと、数学で使うノートを裏から開き、まるでそこから鳩でも出す勢いで、魔法の杖みたいに第一投を投じた。
 インクは黒だった。表3対向の白紙に、力加減で太さを変えていく1本の線が引かれた。絵描き筆じゃないんだから文字を連ねればいいものを、岡敷は綴るべき文字列をなにひとつ用意してはいなかった。
 彼にとって文字は後追いの実用で、それより使い慣れたシャープペンシルやボールペンとの違いを知ることが先決らしい。
 僕は岡敷の机に振り向き、2本目の線なり丸なり四角の図形が描かれるのを待っていた。
 万年筆は好きではなかった。使う前に手が汚れてしまうからだ。だけど岡敷の使う万年筆は、僕のと違ってカートリッジ式で、手を汚す心配が薄れている。彼のいう「インクを入れる」は僕のスポイト式とは違って、ポイ捨て新装方式だった。

 正午をまわって陽は高いところから地上に光を散布していたけれども、11月を間近に控え、さすがに肌寒さを追い払うには力が不足していた。肌寒さは、暖房器具より運動で吹き飛ばせるお年頃。誰かがサッカーやろうぜ、と教室後方で声をあげると木造校舎の床板がにわかに騒ぎ始め、7〜8人が特大団子を転がしたみたいにドタドタと慌ただしく校庭に向かった。
 一陣の風のように舞って消えたざわめきだった。
 僕は岡敷のノートに目を戻した。時間にして、ひと瞬きほどしかなかったのに、よからぬ事態の傷跡が残されていた。目を離した隙に、とんでもないことが起こっていたのだ。数学のノートには、よちよちと歩き始めた1本の線と、終末を伝える芸術的爆発が対となって均衡を保っている。爆発は生涯消えない傷跡のようでもあり、激怒を締めくくるピリオドのようでもあった。
 どれの仕業かは、火を見るよりも明らかだった。岡敷が持つ万年筆の様子をおそるおそるうかがってみた。おおよその見当はついていた。コンマ何秒かの間に起きた事件の読点は、相応のダメージの表れなのだ。
 岡敷の手には、万年筆が握られたままだ。握られた万年筆は、岡敷の意識をだるま落としで下段胴体をみごとに落としたハンマーみたいに冷たく見えた。ダメージは想像を絶し、ペン先がキュビズムで描かれた女性像と化していた。
 読点で済んでいれば、救いがあったかもしれない。だけど岡敷の魂を抜いてしまうほどの衝突事故は、万年筆に永遠の句点を刻んで死んだ。

 岡敷の口は、文字で書いたみたいに「あ」で止まっている。万年筆で半紙に描いたみたいに、開いた口の「あ」は滲んでいた。

 誰かが悲しいと、僕も悲しい。知り合いの悲しみは、誰かの心を痛くする。
 知らない誰かが悲しくなっても、きっと周りに心を痛める人がいる。
 悲劇は、起こるべくして起こる。転ばぬ先の杖を持っても、石でつまずかずとも経年劣化で杖が折れ、こけてしまわないとも限らない。人生は喜劇と平行に走る悲劇とで均衡を保つようにできている。喜びの歌を歌えば、悲しみの詩が聴こえてくる。楽しさを追い求めて手に入れれば、均衡の向こうで真逆のものを手にしているものなのだ。

 アナタが悲しいと、誰かが悲しい。あの人が悲しいと、アナタも悲しい。だけどその悲しさは、悲しいだけで終わらない。ひとつ積み上げるごとに、均衡の向こう側で、ひとつずつ誰かに優しくなっていく。

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