ないのに、ある。
腕はないがたくさん描いてるうちに、技なるものがなんとなく見えてくることがある。
技といっても、習得しているわけではない。
独りよがりの、世の中に通用しないメソッドだ。
たとえば空白を残しているのに雲だとわかる雲。
描かなくても広がることを知った。
面というシンプルな図形を数個組み込むだけでもともと立体性などないはずの絵に、その足りなさ具合に意図をひとつまみふりかけるだけで動きが出る。
線画にしても足りないからこそ伝えられるものがある。
足りなくても伝わるのは、放った石がじき着地することをみんなが知っているからだと思う。
実はこの感覚、文章から教わった。
その1)小さな頬をポコンと大きく膨らませて甘味を堪能している。
ーー これだけで、誰がそうしているのかが伝わる。
その2)髪の毛がなびくように裾をなびかせている。
ーー少なくとも大人でもなく子どもでもなく、男子でもないことが伝わる。 誰が、なのかがわかる。
その3)僕はまわしこんだ手のひらで包みながら、握られながら眠りに就く。
ーーちょっと刺激がすぎるか!?
その4)もうよく噛めなくなっているのに味わおうとしていた。
ーー 慈しみの気持ちを添えて接すれば、こんなことも気にかかる。誰がどんなものを、なのかわかる。
その5)すんでのところで届かない我が尾をまだつかめずにいる。
ーー 何者が、何をしているのかが伝わる。
足りなくても伝わることってある。
ーーーーーーー
常々思っていることなのだけれども、読み手が書いた文章世界に読み手がひょこっと入ってきてくれればいいな、と。
あえて書かないこともあって、そこは誰かが入り込む余地みたいなもの。
誘い水。
描く世界に意識していることはほかにもたくさんあるけれど、「あえて足りなくする」は自分に課したテーマのひとつ。
絵にしても、文章にしても。
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