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【二輪の風景-7】昭和の写真から。

 父はセピアに変色した昭和のモノクロ写真に、ガキンチョのまま閉じ込められていた。臍は曲がっているくせに一度こうと決めたらテコでも動かぬ一本気の性格が、ガキンチョの父からシュワシュワと吹き出していた。今とちっともかわっちゃいない。過去の父と直接対峙したことのない僕は、今を起点に過去の父をとらえるとそういうことになる。
 写真の父には、今の僕の年齢からすると年端もいかない子供のくせに、有無を言わさぬ威圧感があった。大人になった父の威を借る子供ではない。子供のうちからそうした威厳というか迫力というか、そのようなヤンチャオーラを放っていたのだ。もっとも現代まで歳を積み上げてきた父はヤンチャという子供の殻を脱ぎ捨てて「挑戦を厭わぬ鬼部長」に化身していた。挑戦を厭わぬ鬼部長? 本人の弁だから話半分に聞いていたけど、大人らしからぬ発言はまさにヤンチャオーラのなせる技なのだと思う。そのようにして父は幼虫から脱皮して空に羽ばたいた。
 時代を切り取った写真の父が単車のリアシートにつまみ上げられるように乗せられていたのは、三菱工業製のスクーターなのだという。
ーーミツビシがバイクを作っていたの?
==そうだ。シルバーピジョンと言う。
 なぜ仏頂面をしているの? と訊いたら「忘れた」という。一本気は時にこうして真実を実直に浮き彫りにする。誤魔化すのが苦手なのだ。本当に忘れたのなら、思い出そうとする工程で摩擦のような思考の痙攣が起こる。答えるのに躊躇ためらいが生じる。なのにきっぱり「忘れた」と言い切るのは、思い当たる節をもみ消そうとしたからだ。
 言いたくないことは言わなくてもいい。大人になった僕は、もっと大人の父の意向を汲んだ。

 僕の知る限り、つまり生まれてから今日までの記憶として留めておいた記録の中にはということだけど、父がバイクに乗っていた時期は寸分もなかった。移動はチャイルドシートから始まって、助手席に移り、物心がついてからは母に助手席を譲った。自家用という範疇で我が家の歴史をとらえれば、クルマしか存在していなかった。とくにバイクがなくても不思議はなかった。違和感もない。不便も感じなかった。ごくごく当たり前にクルマのある暮らしの風景を時代ごとに重ねていっただけだ。
 もちろん僕もバイクには乗らない。免許も持っていない。就職の足しになるかなという程度で、4年の夏に合宿で自動車の普通免許を取っただけだ。
 家のフィアット・パンダを借りてたまに運転する。腕はまんざらでもない。自己評価だけど。だから今の我が家で二輪と接点を持っているのは、あの写真に写った昭和の父だけだった。

 就職して初めての夏の帰省時、父の部屋にカタログが整然と積まれているのを見つけた。表紙を見ればそれが何なのかはひと目でわかる。オートバイのカタログだ。なぜ?
「お父さん、バイク買うの?」
 父のワイシャツにアイロンをかけていた母が、居間に差し込む太陽光に目を細めながら目を僕に向けた。
「そうみたい。まるで子供なのよ」
 聞くと、父は結婚するまでずっとオートバイに乗っていたのだという。「横乗りでいろんなところに連れていってもらったわ」
 初耳だった。「そうなの? 知らなかった。その時の写真はないの?」
「あると思うけど、お父さん、乗れる時が来るまで封印するって言ってたわ。それにしてもお父さんらしわね。こうと決めたら、オートバイのオの字さえ出さなくなった。頑固な人だからね。ところで写真、探してみようか」
 僕は、そんなことしなくていいよと母に言った。それだけで、充分、父が我慢していたことが伝わってきた。
 本当は、乗りたかったんだ。乗りたかったけど、高まる気持ちを封じ込めて仕事に打ち込んできたんだ。家族のために。危険を回避する意味もあっただろう。経済的な事情も関係していたかもしれない。僕が生まれてきたことで父はいちど自分の想いを断ち切ったのだ。

「あいつも無事就職したことだし、そろそろいいだろってお父さん言ってた」
 いいと思う。ちっとも悪いことじゃない。悪いことではないんだけど。
「あの歳で危なかないか?」
「腕には自信があるんだって。だからといって過信はしないから頼むよってお父さんに頭、下げられちゃった。頑固なお父さんにそんなふうにされちゃあね。仕方ないわよ」

 父は5時には会社を出て家に帰ってくる。今夜は晩酌を付き合ってやるか。父のその青春時代の恋物語をからかってやるために。バイクの話をとことん聞いてやるために。

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