「自分から出る」ことについて

先ほど「自分を入れる」ということについて投稿した。今度は「自分から出る」ことについて書きたい。自分から出るというと解脱、超越のようであるが、そういうものよりもむしろ、「私」「あなた」という人称性の強い屹立(およびそれらを対立させること)から逃れ、主客合一…言葉はいくらでも言えるが、とにかくそういう状態を描き出すこと。ドゥルーズはそれを「ひとつの生」と読んだ。以下に引くのは、彼の亡くなる直前の文章で、よく引用されるところではあるが改めて引いてみたい。

「ディケンズほどみごとに、ひとつの生とはなにかを語ったものはいない。極道が一人、みんなが軽蔑し相手にしない悪漢が一人、瀕死状態におちいって運ばれてくる。介抱に当たる者たちはすべてを忘れ、瀕死者のほんのわずかな生の兆しに対し、一種の熱意、尊敬、愛情を発揮する。みんなが命を救おうと懸命になるので、悪漢は昏睡状態の底で、なにかやさしいものがこんな自分の中にも差し込んでくるのを感じる。しかし、だんだんと生に戻るにつれ、介抱に当たった人々はよそよそしくなり、悪漢は依然と同じ下劣さ、意地悪さに戻ってしまう。」(「内在ーーひとつの生……」)

私個人としては、この「ひとつの生」という訳語は「ある生」の方がいいのではないかと思っている。なぜなら、ひとつ、ふたつ、という数詞的なことが問題なのではなく、私の生でもなくあなたの生でもなく「ある生」ということが肝要だからである(芥川「或る阿呆の一生」的な…そういえばモーパッサンの「ある生」も「女の一生」と訳されていた!)
ドゥルーズは同じく晩年の『批評と臨床』に収められたマニフェスト「文学と生」で、「書くとは、みずからの思い出、旅、愛や喪、夢だのファンタスムだのを物語ることではない」とか「人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない」と強く念押ししているが、これは個人的な体験から出発したら即アウト〜ということではないだろう。むしろ出発点は個人的な体験や意見でもいいのである。それを以下にして非人称的なゾーンへと錬成していくか、もしくは融解させていくか、そこに作家の手腕がかかっているのである(平田公威のドゥルーズ論は、このような「なかなかドゥルーズの言うようにはできない私…」という地点から出発しているユニークな着眼点であった)。

着地点を開いたまま筆を置く。

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