濱口竜介『他なる映画と1』書評

「つながらないもののつながり」。これに類する言葉が本書で一体何度繰り返されただろうか。その言明は、映画のショットとショットとの間のそれ、映像と音声と間のそれ、時間と空間の間のそれといったふうにさまざまに変奏され、さらには最終章で小津を論じるにあたっては「周吉の言葉は、私たちが無関係であることこそ、むしろ最も深くつながり合うための条件であると示しています」とも述べられているのだから、これらを著者のある種の倫理観として受け取ることさえできるかもしれない。ただし単純化は慎まなければいけない。本書の尽きせぬ魅力は、いくつもの映画作品を具体的にたどりながらそれらの主張がわかりやすく提示されているところにあるのだから。とはいえ、そうは言ったうえでそれら別個の作品(論)同士の間に「つながらないもののつながり」(=共通するテーマ)を見出すことも可能であると思われる。

まず、濱口の基本姿勢として、当たり前すぎることであるが、画面をよく見て、音声をしっかり聴くことというものがある。「近年の情報環境のありよう」は「我々から見る力・聞く力、つまりは「注意力」を奪い続けている」という「まえがき」の弁明だけで、本書は熟読するに値する本だと確信した。そして、画面への注視だけでなく音への傾聴が本書において特に顕著であることも明記しておきたい。『晩春』における原節子の語尾についての分析(シナリオと付き合わせながら「よ」「の」「わ」「ね」のニュアンスを聴いていく)、それから自作のいわゆるイタリア式本読みをさせることの狙いを語った箇所。ただ棒読み演技をさせたいのではなく、稽古場と現場での「声」の違いに俳優に敏感になってもらいたいのだ、というようなことが述べられていた。彼はことほどさように「声」を重視する。別の所で「からだは嘘をつかない」という言葉も引かれるが、きっと声も嘘をつかないのだろう。震災後の東北インタビュー諸作を作るうえで「その二年間のあいだ、私には聞きたい声がありました。聞きたい内容があったわけではありません」と述べるのは監督の素直な心情告白である。もしこのあたりを更に深読みするとれば、映画を見ることにおいて視覚性がどちらかというと優位に置かれていた従来の批評(私の勝手な印象だったらすいません)から、近年の書き手による音声も十分に視野に入れた批評・研究へといった時代の潮流に、本書もある程度呼応していると言えるかもしれない(『近松物語』の「茂兵衛」(も・へー)の分析には思わず細馬『うたのしくみ』を重ねてしまった)。

なぜ画面をよく見、聴くかといえば、そこにすべてが記録されてあるからである。こうした映画への態度はそもそも映画というメディアの「記録性」からやってくると最初の講義では述べられる。スコリモフスキやホークスを引きながら、「本当に起きた」ことを記録するメディアとしての映画に素直に驚きつつ、その中に「グリフィスのクロースアップが真に発見したものは、この「画面外の領域」、そしてその画面外を見つめる瞳、つまり画面外への「視線」です」といった卓見も忍ばせる。画面外の問題は、濱口の師である黒沢清がリュミエール映画を問題視にした時にすでに提出されていた重要な論点であった。本書でもホン・サンスや小津をめぐる箇所など、時折姿を見せる問題である。直接の言及はないものの、同時代的な批評家として赤坂太輔の『フレームの外へ』が、Youtube的な映像(画面内へと情報を押し込め画面外を志向させまいとするもの)に対する映画の抵抗を力説していたことを思い出しても無駄ではないだろう。

オリヴェイラによる映画の見事な定義を引いたあとで、濱口がさりげなく「この「非-生き物的な時間」もしくは「からだ」」という言い換えを行なっていることは興味深い。最初はこの言い換えがすんなり理解できなかった。濱口は映画における「声」だけではなく、その母胎である「からだ」の記録性にも注意を向けていく。更にアリストテレスからデヴィッド・ボードウェルまで引きながら、劇映画における動作の反復の掟についても述べる。映画を見るうえで反復(何かが繰り返されること)が重要なのは言うまでもないが、濱口にとって最重要なのはその反復の機構が崩れる瞬間で、彼はそれを例えば『東京物語』の動きのシンクロ「し損ない」に見てとる。ここが映画の転換点になっている、という形で。またフリッツ・ラングの復讐劇においては、復讐が「なされない」という形での反復の崩れを指摘し、そこにラングの新しさ(と一言ではまとめきれない時代との葛藤も含め)を見る。このように濱口は動作の反復を見ていくわけだが、これらの態度の基盤になっているのは、「こう思った、から、こう動いた」ではなく「こう動いた、ということはこう思ったってことか」という思考の順番である。この順番は現代映画を見るうえでは決定的に踏み落としてはならないポイントであるらしく、三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』では黒沢の言葉を借りながら「心理表象主義」批判として述べられていたし(p.162参照)、須藤健太郎の『作家主義以後』では(ここは対談者の廣瀬純の発言であるが)心理や欲求に対する身振りの先行性が述べられている(p.356参照)。このように濱口の主張は、同時代的な作家や批評家と多分に呼応するところがある。それは彼が三浦、平倉をはじめさまざまなテクストを熱心に読み込んでいることの証左でもある。ここまでの書評もやや外在的な形で本書の肉付けをしてしまったが、基本として押さえておきたいのは、本書の分析が、そういった外部参照をほとんど必要とせずとも誰でも面白く読めることである。この明快さと痛快さにどう立ち向かおうかと思案した結果、結果的に屋上屋を架すようなかたちになってしまったことをご寛恕願いたい。

最後に、濱口にとって一番「つながれないもの」とは何かと言えば、これは冒頭からはっきり述べられている通り「映画」そのものである。映画はその自動機械性により、人間とは徹底して「他なるもの」であるという意識(自意識?他意識?)。そのことからくる眠気や忘却……濱口はそういった印象を隠そうともしない正直な人間だ。しかし単に印象論に終始するのではなく、茫漠とした印象から出発しそれを驚くべき精緻さにまで練り上げていくさまが圧巻だ。『非情城市』論においては、初見時の「何かを、確かに見た」というこれ以上なく漠然とした感覚(だが私はここに膝を打ってしまったが!)を手がかりに、それを「歴史、を見た」と変換させ、最後までその印象を手放さないまま、しかしだんだんと解像度を上げて見事な分析にしていくのである。侯孝賢とエドワード・ヤンの対比も興味深く、そこで引かれる木田元のテクスト『偶然性と運命』(本書全体をつながらないままにつなげる鍵かもしれない)についても語れることはたくさんあるが、あまり思想的な読みは控えたい。いかんせん『他なる映画と2』もまだ未読なので、それらをすべて読んだらまた改めて書評を書こうかと思う。
著者にとって最も「つながれないもの」であったはずの映画と著者がここまで「つながれている」という奇跡(?)に感謝しつつ、この新たな機械主義的書物の出版を喜びたい。

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