ストローブ=ユイレの映画



ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ夫妻は、ストローブ=ユイレという連名でたくさんの映画を撮っている。ユイレは2006年に、そしてストローブも2022年に亡くなってしまった。そんな彼らが2006年に『あの彼らの出会い』という映画を撮った。チェザーレ・パヴェーゼというイタリアの作家が書いたテクストを、二人の人物が自然豊かな屋外で淡々と、イタリア語で読み上げる(一編が10分強、それが5セット描かれる)という、極めてミニマルな作りの映画だ。

この映画で我々は「あの彼ら」と出会う、というよりむしろ裸の「見ること」と出会う。映画が始まってまず目に飛び込んでくるのは、二人の人物であるが、それ以上にその背中である。ひとりの女とひとりの男は、キャメラに背中を向けて語り出すのである(これだけでもテレビといかに異なっているかは一目瞭然だろう)。顔でなくて背中である以上、私たちはどこに瞳を中心化させて見たらよいのかわからない。私たちは、自身の知覚がゆっくりと画面いっぱいに押し拡げられてゆくのを感じる。そして、人物だけでなく、揺れる草叢や、虫の音、この画角で画面に収まっていることが必然(奇跡?)としか思えないほどの樹木などを、要するに風景を発見するのである。人物と風景、地と図の関係が融解していると言ってもよいかもしれない。

さらに画面を見つつ考えてみる。マスターショットと呼べば呼べなくもないショット、すなわち二人を映した画面から、今度は一人ずつのショットへと推移するーーそこでも完璧な構図は維持されている。Aが喋り、Bが喋り、またAが喋り……。だがこのような言い方で、何か重大なものを取り逃している感が拭えない。改めて問う。何が一番重要か? 何が私たちの瞳に要請されているのか?

それは、Bを挟んだA1とA2を、決して同じものだと知覚しないことではないか。ここを踏み落とせば、「なるほど、またAが喋ったのね。そして次はBね」というような、頭での「理解」に至ってしまう。Aが始めに喋って、Bが喋ってまたAに戻るその間に(すなわち一定時間Aを見ていない間に)陽光の変化がどうなっているのかと真剣に問うこと。そしてそれを決して見落とさないこと。事実、A1では眩しいほどの光だったのが、A2では陽が陰っている、そんな変化はこの映画において幾度も見られる。

このように瞳を酷使することこそがストローブ=ユイレ映画の楽しみ方である。楽しみといっても、それは娯楽的満足とはだいぶ違う。いくぶんかの苦痛と表裏一体になった、そんなたぐいの快楽。

ここで一本の補助線を引いておきたい。哲学者ジャン=ポール・サルトルの「実存主義」の思想である。もとよりサルトルの全的理解が目的ではないからあくまで部分的なエッセンス抽出であることは断っておく。
サルトルには有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがある。例えばペーパーナイフは本質(「〜である」)が先に立っているが、これに対してただ人間のみが、実存(「〜がある」)が先に立っている、とサルトルは説き、それまでの価値観を転倒させた。アンドレ・バザンもこれをうけて、「映画では、実存は本質に先立つ」と書いているが、これはまったく正しい。
『あの彼らの出会い』に即して言えば、A→B→Aといった形で理解するのでは本質が先立ってしまっているが、一瞬ごとに瞳に映った光景、すなわち実存がそうした理解に先立つと考えること。批評家的な言い方をすれば、見ている一瞬一瞬、その度ごとに瞳が「武装解除」されていくあり方。これがストローブ=ユイレが観客に対して要求する態度だと言える。

その教えは『セザンヌ』などでも啓蒙的に語られることになるが、この観点に立つことはあくまで事柄の出発点にすぎない。その観点からストローブ=ユイレ作品全体を見渡した時に何が言えるかは、また別途語らなければならない。

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