レオス・カラックス

レオス・カラックス監督映画の魅力は、その「つくり物性」にあるのではないか。
カラックスのすごさは、愛だとか恋だとか、そうした現実世界にもあるレベルの話ではなくて、現実の映し絵でありながらも決して現実に似ない箇所にこそある。例えば『ボーイミーツガール』でデヴィッド・ボウイの「When I live my dream」が流れる時、アレックスが路上で見かけるカップルはキスしているが、お立ち台みたいなところの上でクルクルと回っている。これは明らかに作り物だ。しかし、もしそのお立ち台ごと画面に映してしまったら、それは「虚構が行き過ぎて」しまう。このあたりの塩梅が面白い。
カラックス映画には「ノリつつシラける、シラけつつノる」という態度が最も相応しいのではないか。彼はインタビューで、コウルリッジを引きながら「疑惑の保留」について述べている。観客は「これ嘘っぽい」と感じても「ま、そもそもフィクションだし」とすぐさま思ってその疑いを引っ込めるという習性がある。カラックスが誰よりも真剣に考えてきたのはこの問題ではないか(日本人でその傾向を探究している監督としては、黒沢清の名前を挙げたい)。
最新作『アネット』は、これみよがしに全編嘘の映画だ。冒頭の練り歩きシーン(「練り歩き」は、『メルド』で発見し『ホーリーモーターズ』で進化させた新たな鉱脈だ)からして「So may we start」と言って始まるわけだから、これはほとんど漫才の「はいどーもー、そんなわけで始めていきたいんですけども」と同じようなものだ(ちなみにラストも練り歩き+「That’s end」でダメ押ししてくれる)。
ヘンリーがスタンダップ・コメディーをやれば、客も「ノーノーノー!」と歌って応酬する。あちらサイドもこちらサイドも協力してひとつの巨大な嘘を作っている。まさしく圧倒される140分の体験であった。
そんな中でもただめちゃくちゃやっているというだけではなく、映画的に興味深いシーンもたくさんある。嵐で荒れ狂う大海原の中の船室、船が揺れているのをいったいどう示すか。凡庸な監督やキャメラマンだったら、キャメラをガクガク揺らしてみせればそれでよい。だがカラックスはそうしない。ベッドサイドに何個も「起きあがりこぶし」を置いて、その倒れては起きあがる様とガラガラ……という鈴の音で揺れを表現してみせる。物に、映像に語らせる。これこそまさに映画だ。
もう少し後のシーン、ヘンリー宅、彼はベビーベッドで赤ん坊を寝かしつけているのだが、189cmのこの巨体がベビーベッドの「中に」いるのである! むろん、別にこんなショットはなくても物語はつつがなく進行する。だがここにこれを入れる(サービス)精神こそが映画的、もっと言ってしまえばサイレント映画的な感性によるものであって、私はカラックスのこういう所も大好きだ。こういうのが映像の真実であるとわかっているからこそ、虚構とも自在に戯れることができるのだと思う。
カラックスにおいてはすべてが嘘であるが、それはいささかも彼を貶める言葉ではない。彼はただの想像力お化けではない。つまり、すべては映画なのだ。

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