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男と宣伝

 この度『男と遊び』と題してPLANETSからの出版が決まった。まことにめでたい。私にとって、初めてのエッセイ集である。
 思えばある鮨屋で私とPLANETSの宇野常寛の、『エッセイなるものを書きたい』『ならばうちでやるがよい』との会話から始まった連載だが、この安易さを悔いる事しばしばであった。いざ、書き出そうとすると、なんと言うか、怖い。エッセイというのは脚本や小説よりも生の自分が出るような気がする。料理で言えばフレンチや中華のようにソースや香辛料で味付けする事なく、和食のように素材の味をどうぞ、といった感じである。当然、この場合の素材は私自身、という事になる。参った。私にそんな価値があるとは思えない。などと考えているうちに迷路にはまった。しまいには自分の来し方に思いを巡らせ、そのいい加減な生き方に絶望し、『うう』と呻いた。

 昔から、私はエッセイを読むのが好きだった。それも、軽く、楽しいもの。そういったエッセイを、ベッドに横になってポテトチップを食べながら読めば、無上の喜びである。だが、当たり前だが、書くのと読むのとでは大違い。軽いものは軽く書けないものだ。大体、物を書く時には構えが生じる。軽いものを書くにはその構えを解かなければならない。だから、作者の顔が見える。自分が出るのだ。
 結局、色々思い悩んだ末に、私はエッセイを書くためのルールを作った。まず、説教と自慢話はしない。これは女を口説く時と同で、先輩ライターに教わった事だ。『いいか、女に好かれたかったら決して説教と自慢話だけはするなよ。気持ちいいのは自分だけで、ウザがられるだけだからな』そう言いながら、先輩はクラブやスナックの女の子に説教と自慢話を繰り返し、嫌われていた。誠に得難い反面教師である。
 さらにある日突然、『花と団子』なる言葉が頭に浮かび、エッセイの縦軸であるテーマが決まった。『花より団子』とはよく言うが、『花』と『団子』両方あるに越した事はない。そうして月に一回、まさか本になるまで連載が続くとは想像だにせず書き始めたのだ。

「なあ、マスター、おれがこのバーに通って何年になる?」
「そうですねぇ、十五年ほどになりますか。随分お世話になりました」
「ああ。随分世話したな。おかげで財布と肝臓に穴が開いたぜ。ところで、もうすぐおれのエッセイ集が出るんだが……」
「それはおめでとうございます。ぜひ、購入させていただきます」
「何冊?」
「は?」
「最低十冊は買って店に置け。その代わり一杯奢ろう」
「分かりました。では、ポートエレンを頂きます」
「なに? 一杯が高級鮨屋一回分に相当するあの、幻のウイスキーか」
「はい。駄目、ですか?」
「い、いや、武士に二言はない。好きにしろ」

 本が出るのはめでたいが、売れなければ意味がない。私は日々、宣伝活動に勤しんでいるのだ。
 ところで、先日、ある割烹でレモン鮨なるものを食した。最近、持病の腰痛がひどいのだが、その逸品はさわやかな風のようで、痛みを忘れた。皿の上で、まるごと一個のレモンがゴロンとしている。レモンの上三分の一がカットとしてあり、それが蓋になっている。くり抜かれたレモンの中には蟹飯が詰まっていて、蓋のレモンを絞って食べるのである。見た目も、味も、さわやかで気分が沸き立つ。

「ママ、今日もきれいだな」
「あら、ありがとう、お上手ね」
「おれがこのクラブに通うようになってから、随分になるな」
「いつもご贔屓感謝しておりますわ」
「自分で言うのもなんだが、おれほどいい客はいまい。女の子を口説くわけでもなく、たとえ口説いてもあっさりフラれ、悔しい思いをしてもおくびにも出さず現金払い」
「素敵」
「ところで近々おれのエッセイ集が出るのだが」
「素敵」
「買え。この店の壁をおれの本で埋め尽くせ」
「素敵。その代わり、シャンパン頂いてもいいかしら?」
「よかろう。好きにしろ」
「ドンペリ入りました〜」

 こうして全くアテにならない約束を取るために私の財布は確実に軽くなっていくのだった。今年は花粉がひどい。夜の街に私のクシャミが響き渡る。

(井上敏樹)


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