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男と蟹

 先日、地図を買った。日本地図である。なんとなれば私は呆れ果てるぐらい地理に弱いからだ。
 昔から興味がなかった。自分は日本人だ、日本中、どこに行ってもそこは日本だ。それだけ分かっていればいいと思っていた。なにしろ広島は東北だと思っていたし、名古屋は『市』ではなく『県』だと信じていたぐらいである。
 友達と旅行の計画を立てていても『長野と愛媛に行きたい店がある。昼飯は長野、夜は愛媛でどうよ』などと言って顰蹙を買う始末だ。京都奈良間も三鷹から吉祥寺ぐらいの距離かと思ってタクシーに乗ったら一時間半もかかってしまった。
 これまではそんな感じで強引に生きて来たが、これではいかんと反省し、地図を買ったわけである。最近では夜寝る前に日本地図を眺めている。おかげで四国四県を言えるようになった。人間、幾つになっても勉強である。

 さて、今回は蟹の話。当然、蟹にも色々あるが、上海蟹の話である。
 この蟹は名前の通り中国で採れる 淡水蟹でモズク蟹の仲間である。中国では蟹は海より川、川より湖のものが良いとされるが、これは上海蟹への讃歌だろう。中国では自動販売機で上海蟹を売っていて、まさに国民食と言っていい。私も、はまった。今は検疫の関係でダメになってしまったが、以前は生きているものをネットで取り寄せる事が出来た。旬は秋から冬。まず雌が出始め、これは主に内子を食べる。冬は雄の白子。どちらも美味で食い飽きない。
 日本では、蟹と言えばズワイ蟹がやたらと持て囃され、高価だが、私に言わせればあれは旨過ぎる。
 なんであれ、『過ぎる』というのはいけないもので、私など、脚一本、いや、二本、いや、三本も食べれば十分である。その点、上海蟹は(特に雌だが)無限に食える。私が死んだら、棺桶を上海蟹でいっぱいにして欲しいぐらいだ。
 ただし、この蟹は脚や爪の肉はだめである。大体、小型の蟹なので量が少ない。それをちまちまと苦労して掻きだしても妙に泥臭くて感じが悪い。やはり上海蟹はけちけちせずにバケツ一杯ほどのものを蒸し上げて内子やら白子を貪り食い、あとは公家風の余裕をもってポイッと捨てる。もったいないと思う向きはみそ汁に使うのがよろしかろう。きっと不味いダシが取れる。
 蒸しの他には酔っ払い蟹も捨てがたい。いや、寧ろ蒸しよりいいぐらいだ。これは必ず生きているものを使わなければならない。私は以前、これに取り憑かれた。
 活き蟹さえ手に入れば作り方は簡単である。基本的には紹興酒に漬け込めばいい。だから酔っ払い蟹なわけだ。後の醤油やら砂糖などの調味料は好みで加減する。漬け込みの期間は三日から二週間ぐらい。個人的には深漬けの方が好みで、そのねっちりとした内子を紹興酒とともに食せば『あ~、生きててよかった~』としみじみと呟きたくなる。白飯のおかずにしてもこの上ない。釜で炊いたぴかぴかつやつやの、米の香り立つ飯の上にとろっとした甘い内子をぶっかけてガツガツとかき込めば過去も未来も吹き飛んで、ほとんど悟りの境地がかいま見える。
 私はこの酔っ払い蟹を、金は持っているが食には金を使いたがらない性格の悪い友人たちに振る舞ってやった事がある。
 もちろん、私が自分で作る。漬け込みの時間を考え、宴会の十日ほど前に活き蟹を取り寄せた。
 ちなみに上海蟹は小型ながら非常にパワフルで挟まれると危ない。指が飛ぶ。だから届いた蟹は動けぬように紐で束縛されている。まるでSMの亀甲縛りである。その紐を切って鍋に放り込み紹興酒を注いだ。
 ところが、丸々一本使っても、十五匹もの蟹を漬け込むには量が足りない。仕方なく近所のスーパーに買いに行ったが、帰って来てびっくりした。鍋の蟹が半数ほど消えている。脱走したのである。私は上海蟹のパワーと生に対する執着をなめていた。紐を切ったのが間違いだったのだ。死ぬ前にほんの少しでも自由にしてやろうという仏心が仇となった。
 私は大慌てで蟹を探した。だが、何分私のアトリエは雑然としている。その上、なかなかに広いワンルームマンションである。身を隠すにはもってこいだ。
 それでもあちこち探して一匹、二匹と回収を続けたが、残りの三匹が見つからない。冷蔵庫の下や洗濯籠の中を探しても影もない。
 まあ、そのうち出てくるさと取りあえず十二匹をたっぷりの紹興酒に漬け込んだ。さらに醤油、砂糖、鷹の爪、八角などを放り込み、もう逃がさんとばかりにきっちりと蓋をしてヴェランダに置いた。あとは待つばかりだ。
 ところが、逃走した三匹が一向に姿を現さない。翌日、翌々日とあちこち探しても見つからない。
 宴会当日になると、私はすっかり逃げた蟹の事を忘れていた。
 出来上がった酔っ払い蟹は素晴らしかった。友人たちも上機嫌である。シャンパンやら紹興酒やらを飲み散らかし、歌う踊るの大騒ぎ……。私は朝まで粘ろうとする友人たちを叩き出し、ベッドの上で気絶した。
 数時間後、私は暗い部屋で覚醒した。妙な音がする。
 ガサ……ゴソ……。
 そして逃亡した三匹の蟹の事を思い出した。
 しかし、あれから十日も経つ。まだ生きているなんてあり得るだろうか。部屋のどこか、私が立ち入れない片隅で死んでいるとばかり思っていたが……。
 私は飛び起きて部屋の明かりを点け蟹を探した。
 いない。どこを探しても見当たらない。きっと空耳だったのだろう。

 ところがそれから一年、二年……七年が過ぎても時々あの音がするのである。
 ガサ……ゴソ……。
 私は最近夢を見る。部屋のゴミを食べて生き続け、巨大化した上海蟹が襲って来る夢を。
 私のアトリエで私が原因不明の死を遂げていたら……犯人はきっと上海蟹に違いない。

[初出:PLANETSメルマガ2018年11月29日配信「男と食14」]

エッセイ集の刊行によせて、敏樹先生からメッセージをいただきました。

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