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第5章  開国プロローグ(その2) 三吉の新たな出発

(1) 三吉の救出劇

① 宝順丸の着岸

黒潮に乗り、14ヶ月の漂流の果て、ついに陸地を目にします。音吉たち三吉が、アメリカ大陸を見たのは漂着数日前のことでしょうか。
潮の流れは、大陸に近づくにしたがって南に向きを変えていきます。宝順丸は沿岸に沿って南下します。岸は遠く近く、三吉は一喜一憂します。
彼らの切なる願いは、この頃では流れ着くところがどこであろうと、陸に上がりたい一心ではなかったのではないでしょうか。
この潮目からして、宝順丸の着岸の保障はありません。
彼らには、最早、泳いで岸にたどり着く体力などありません。
三吉の思いを乗せて、ついに宝順丸が着岸したのは、現アメリカワシントン州のオリンピック半島アラバ岬の岩礁でした。
そこは、岬の先にキャノンボールアイランドという小さな島があり、引き潮の時にはその島まで歩いて渡ることが出来るという岩礁帯でした。
狙い澄ましたかのように宝順丸は、引き潮の時、その岩礁に乗り上げました。

ワシントン州オリンピック半島アラバ岬岩礁

大海の荒波や風雨にさらされた船体は相当傷んでいたことでしょうが、壊れもせず乗り上げたとあるからには海は穏やかで、しかも風は陸に向かってそんなに強くなく吹いて好条件が重なっていたのでしょう。
この一帯は、アメリカ民族マカ族の勢力圏で、このアラバ岬の見通せる場所には彼らの部落がありました。
三吉は、厳冬のなか彼らに救出されます。1834年1月頃とされています。
それがやがて、フォート・バンクーバーのハドソン湾会社へ引き取られることとなるのですが、その過程で、マカ族、三吉、西洋人の三者の間で認識の違いを生じます。
それは、ハドソン湾会社が「三人を奴隷の状態から救い出した」としているのに対して「人命救助したのは我々だ」とマカ族が強く反論していることで、それぞれの立場を鮮明に映し出しています。
三吉にとって、全くの未知の世界への第一歩がどのようなものであったか、少し考察してみる必要があります。

② 絵手紙の発信

三吉にとって、気の遠くなるような漂流生活に終わりを告げましたが、当初、三吉を待っていたのは異民族の奇異な風習やしきたりでした。命からがら助かったものの言葉は通じず、意思を伝達するための手立てもなく、気が付いてみれば「とんでもないところへ漂着してしまった」のです。
そんな中、三吉は、ときどき訪れる、きちんとした身なりの西洋人に、自分たちの存在を知らしめるため絵手紙による伝達を思いつきます。
三吉の思いを乗せた絵手紙は、人手を伝って、西洋人に渡り、ハドソン湾会社現地支配人マクラフリンにまで到達します。彼は、早速、救出作戦を開始し、三吉を保護します。その年の6月中旬ごろと思われます。
マクラフリンのもとに届いたその情報とは、田中啓介著『奇談・音吉追跡』に、ハドソン湾会社資料 №3(1842年4月28日)が掲載されていて、それによれば、

ハドソン湾会社の社員が奇妙な方法でこの事件に気付いた。彼らは一枚の和紙に、岩礁に乗り上げた帆船と、略奪に忙しいインディアンと共に、三人の難破船の乗組員が描かれた絵を手に入れた。これは彼らが調査したくなるのには十分な材料で、マクニール船長はさらに詳しい情報と、またもし必要ならば救助するためにフラッタリー岬に急いで派遣された。
彼はその三人を発見し、奴隷の状態から救って満足感を覚えた。

この絵手紙は、言葉の通じない環境にあって、三吉の状況を、的確に伝えています。おそらく、三人のなかでも、絵心のある音吉の手によるものと思われます。
それは、第2章「生い立ち編」のイラストレイテッド・ロンドンニュースに描かれている「日本人通訳オトによって本物そっくりに描かれた船の隊列」の長崎港の様子から、彼の手によるものと推測できます。
この絵手紙の情報をもとに「人道主義の立場」からマクラフリンは、三吉の身柄確保を指示したとされています。
ここでいうフラッタリー岬とは、アラバ岬の北方25㎞程の、オリンピック半島の北端にある航海者がランドマークとしていた岬です。おそらく当時としては、フラッタリー岬付近とした方が、判りがよかったのでしょう。
ハドソン湾会社の資料によると、三吉救出劇は下記のようです。
事件を知った支配人マクラフリンは、三吉の身柄確保を、最初、トーマス・マッケイに指示します。
彼は陸路、情報をもとに救助隊を組んで、フラッタリー岬を目指しますが、行く手を阻まれ引き返して来ます。険しい地形か、それともその他の原因があったのでしょうか。
そのためマクラフリンは、陸路をあきらめ海路の探索を指示します。引用文にあったように、それを、ラーマ号のウイリアム・マクニール船長に託します。
指示を受けた彼は、直ちにニスクォーリーに届ける補給物資を積み込むとともに、三吉の救出に向かいます。このときマクニール船長は、救出をより確実に遂行するために数人の同族の住民を人質として交換するために乗せて行った、とも記されています。このあたりはトーマス・マッケイの失敗を参考にしたともとる事が出来ます。
マクニール船長が向かったニスクォーリーは、新たな砦の建設途上で、その責任者が、ラナルド・マクドナルドの父親アーチボルトでした。この一帯もマカ族の勢力範囲だったようで、マカ族からの情報の中継口としてアーチボルトが一役買っていたといわれる所以です。
マクニール船長は、アラバ岬付近のマカ族部落で二人の日本人を発見、相当分の品物と交換する形で身柄を確保します。前出の『奇談・音吉追跡』には、ハドソン湾会社資料 №6として、1834年6月9日付のクラレンス・B・ダグレット氏の記述があります。

わたしは6人の仲間とカヌーでラーマ号に行った。マクニールに招かれて楽しいお茶と語らいの時間を過ごした。彼は二人の中国人を指し示して、最近フラッタリー岬近くで、彼らが国から乗ってきた船が難破し、原住民に助けられたのを救い出したと話した。インディアンの住む奥地で、彼らの中のまだ一人が暮らしているが、「ラーマ号」がその近くの沿岸を通る時に、この哀れな仲間を引き渡すことを約束した。船長は彼の航海はコロンビア川から始まり、追い風の順調な航海であったと語った。

この記述から、この時救出されたのは二人で、もう一人は奥地に連れていかれて不在だったとしています。そして、救出したのは中国人としていることから、二人とは意思の疎通ができていないことが窺われます。さらに、マクニール船長は、帰りの便で、もう一人も引取る約束をマカ族との間に取り交わしてニスクォーリーに着いたとしています。
かくして、マクニール船長が帰りの便で、そのもう一人をラーマ号に収容し、フォート・バンクーバーへ帰って来ます。
ラーマ号は、コロンビア川を遡上するぐらいの船ですからそんなに大きくはなかったと考えられます。それでも、三吉は、初めてみる西洋の帆船と、その操船技術に目を見張ったことでしょう。特に、千石船の楫取岩吉は、この船ならば日本へ帰ることも出来なくはないと。
この船上、三吉の心に去来したものは、かすかな、かすかな光がさしたように思えたことでしょう。

③ マカ族の異議

この、西洋人の三吉救出劇に対して、アメリカ民族マカ族の子孫は、強く反発、異議を唱えます。
江戸中期から末期にかけて、このあたりの海岸へ九隻の無人船が漂着したとも伝えられています。
その中にあって、実際、遭難船に生存者がいたのは、後にも先にも宝順丸があるのみです。
マカ族にとっては、大事件だったのです。それは、単に、生存者がいたということのみならず、前章「日本最初の英語教師ラナルドの半生」のなかで述べましたが、彼の出身のコムコムリ族の伝承として「遠い昔、われわれの先祖は東から流れてやって来た」ことを証明するものとして。
彼らの祖先は、東洋人としているのです。彼らの容姿や皮膚の色からそのように思われ、人種差別に嫌気をさしたラナルドが日本を目指した一要因として述べました。おそらく、この伝承は、コムコムリ族のみならず、マカ族を含めたこの地方、すなわち“太平洋西側斜面”に住む民族の統一見解であったのでしょう。
毎年、黒潮に乗って海岸に打ち上げられる漂流物によっても語り継がれていたものでしょう。この漂流物の源が、我が祖先の故郷なのだと。
彼らにとって、生きた人間が流れ着くとは思いも寄ないことでしたが、祖先からの伝承を裏付けるものとして重大な事件でした。
そんな素地からして、マカ族が三吉を同朋と扱いこそすれ、奴隷や略奪したという表現は、はなはだ遺憾とするところです。
ただ、古来より、ほとんど変わらない、自然の恵みによってのみ頼んで生きる彼らにとって、海岸へ流れ着く物は天からの授かりものでした。
そして、思いも寄らぬ生存者、三吉に対しても、その待遇は、遠来の遭難者とはいえ、応分の役割は果たしてもらうという扱いであったのでしょう。
従って、西洋人の表現する“奴隷や略奪”という言葉には、配慮が必要かとも思われます。
それでも、当初、三吉たちに、そのような事実がわかる訳でもなく、不安と恐怖におののいた生活であったことでしょう。

④ 三吉の思い

この時代、日本の船乗りたちは「板子一枚下は地獄の底」と戒め、時化(しけ)にあったときの手順や覚悟を肝に銘じていました。
船乗りたちは、南の島には鬼が住むとも、人喰い人種が住んでいるとも聞かされてもいました。これがうわさに聞いていた鬼ヶ島かと思うばかりのところへ流れ着いてしまったと感じたに違いありません。
例を挙げてみますならば、後述する栄力丸(船頭庄蔵以下17人乗組み)が、1850年11月、江戸を出帆し、12月2日突然の嵐に見舞われ遭難します。栄力丸の乗組員は漂流中、何度も島影を見ます。その都度、彼らは「鬼の住む島ではないか」と議論となり、躊躇するうちに東に流されてしまったと述懐しています。(播磨町郷土資料館『ジョセフ・ヒコ』より)
漂流から52日目の1851年1月22日、幸いにも商船オークランド号に助けられます。
早速、船上では、遭難者の漂流中の垢を落とすため、大きな鍋が甲板に持ち出されて湯が沸かされます。栄力丸漂流民は「我々を煮て食べる準備をしている」のではないかと恐れおののくという話も伝わっています。
モリソン号で同行した九州組の四人が流れ着いたフィリピン・ルソン島も、彼らの印象は「鬼ヶ島に着いてしまった」というものでした。
三吉も当初、これ等の例にもれず、似たような恐怖を持ったことでしょう。
しかし、これらはあくまでも日本人の印象・感情であって、受け入れた側から見れば相当な犠牲を払う救助活動でありました。
立場を変えて見れば、前章で述べました、ラゴダ号やローレンス号のアメリカ捕鯨船難民が日本に救いをもとめながら受けた待遇に、絶望感を持った感情と似たものだったのでしょう。
それにしても、三吉はこの地で5ヶ月ほど、結構長い期間、滞在したと考えられますが、しかも、途中で一人が奥地へ連れて行かれて離れ離れになったとありますが、岩吉・久吉・音吉のそれぞれは、何を思い、何を掴んだのでしょう。そして、奥地に連れて行かれたのは誰だったのでしょう。
田中啓介氏の『奇談・音吉追跡』の解説では「5月下旬岩吉、久吉、6月ニスコリーからの帰途、音吉を救い出した経過が辿れる」として、奥地へ連れて行かれたのは音吉とされています。また「インディアンたちはしきりに『奴隷にして手元におきたがった』」とも述べられています。
このことは、田中氏が同資料№4に見出された内容からのものなのでしょうか。ハドソン湾会社の代理人、ジェームス・バーニー氏の証言を掲載しています。

我々はハドソン湾会社の職員から日本の陶器をいくつか受け取った。それはフラッタリー岬で難破した、日本帆船から出て波に洗われ岸に打ち上げられたものだった。・・・・・(中略)・・・・・「難破船の二人の男と一人の少年が、原住民の奴隷となっていることを知るや否や、原住民から買い取った。ハドソン湾会社はマクニール船長を送って、物々交換で取り戻した。そのとき少年を買い戻すとき少々面倒なことがあった。彼らは続いてイギリスに送られ、さらに日本に送られたが日本人は彼らを受け取ることを拒否した。・・・・・・

この資料から、宝順丸の積載していた品物の中に陶器があり、それがマカ族からハドソン湾会社へ、さらに代理人へ渡る様子が分かります。
そして、この資料では「二人の遭難者と一人の少年」という表現が採られていることも、「そのとき少年を買い戻すためには少々面倒なことがあった。」とも記述されていることが少々気に掛かります。この資料で、著者田中氏が奥地に連れて行かれたのは、音吉とされた所以でしょうか。
ここでいう「二人の遭難者と一人の少年」とは、一人のみが体格容貌に差があることを示しています。この頃、岩吉は30歳で、久吉は17歳、音吉は16歳です。久吉と音吉では一歳違いです。おそらく成長期に漂流生活を送った音吉の成長は著しく阻害されていたものと思われます。従って、この「少年」とは、音吉のことと思って差し支えないと思います。
江戸時代の成人男子の身長は、ものの資料によれば155~57㎝と推計されています。しかも、音吉の成人後の身長は「中肉ニテ丈少々低き方」(注―1)と資料が残っています。このことから、音吉の成人後の身長は150~55㎝と推測され、このとき彼の身長は145㎝前後だったと考えられます。
これは西洋人の平均身長は170㎝ぐらいでしょうか、その中にあって音吉は年端もいかぬ「少年」として扱われたのでしょう。
さらに「そのとき少年を買い戻すためには少々面倒なことがあった」としているのは、どんなことを意味しているのでしょうか。
それが、かれらは「インディアンたちはしきりに奴隷として手元においておきたがった。」としていることを表わしているように思います。すなわち、その少年がマカ族に溶け込み、彼らが手放すのを拒んだとみることが出来ると思います。
このジェームス・バーニー氏の証言の中の「少年」という言葉には、音吉の容姿もさることながら「少年」と別れたくないとするマカ族の愛情が表れているような気もします。
この頃では、もしかして、前章で述べたラナルドとタンガロに似た取り合わせが出来ていたのかも知れません。
いずれにしても、三吉が最初に触れあった異国人は、マカ族でした。そして5ヶ月間、共に生活するうち、三吉のマカ族に対する印象は、これらの証言から、漂着当初の脅威から覚めてかなり違うものになって来たことが窺われます。

⑤ 西洋の沿岸事情

西洋人は、公海上では、今述べた栄力丸漂流民の救出劇とか、22人もの遭難者を助けたマンハッタン号のクーパー船長や、ジョン・万次郎を見込んだホイットフィールド船長のように無類の人道主義者を見ることがありますが、沿岸での漂流者や遭難船についての対応は少し様相が違います。
ヨーロッパ沿岸各地で、ときどき見られる遭難船についての法令(海事法)がそれを物語っています。
ここに、関西学院大学が、インターネット上に発表された、当時の西洋の沿岸事情を知る極めて興味ある論文を見ることが出来ます。それは「近世フランスにおける難破船略奪と『漂流物取得権』」と題された阿河雄二郎氏の論文です。
ここでは、古代から近世にかけての、西洋沿岸でおこった事故や事件をつぶさに調べたうえで、漂流物に対する所有権や、遭難者に非道を行った場合の罰則などの規定の移り変わりが述べられています。
阿河氏はこの論文の中で、中世の法律家ヴァラン(注―2)の信じがたいような、言葉を引用しています。彼は、難破船に群がる沿岸住民の略奪の情景を以下のように描いています。

彼ら(難破した人)は、波の恐怖から逃れたと思いきや、もうひとつの死をしばしば被ることになったからである。それは、彼らに残酷な手で冷淡になされるがゆえに、また、彼らにとって救いの港であったはずの場所でなされるがゆえに、より一層苦痛に満ちたものであった。(そのなかでも)もっとも幸運な人は、自分の身の自由や財産しか奪われなかった人のことである。

『近世フランスにおける難破船略奪と「漂流物取得権」』阿河雄二郎著。()内筆者加筆

ここでなんとヴァランは、命からがら助かった難破船の人々が奴隷の身となったことは「幸運な人であった」とまで言っているのです。北大西洋を望むビスケー湾の港町に育ったヴァランには、このような風聞や伝承が頻繁に耳に入っていたのでしょう。
阿河氏は、さらに、夜間、沖の船を岩礁に導き遭難させ、部落ごとその船に襲い掛かり略奪するという事例も「高い信憑性を持って語られていた状況証拠は存在する」ともしています。遭難船や遭難誘発行為に対して海事法で不備や不合理性が改められていきます。
このように海事法の変遷は、裏を返せば、西洋沿岸では、商船を岩礁におびき入れたり、遭難者にたいして殺戮や略奪が頻繁に起こっていることを証明するものとしています。
近世に至って施行された海事法の適用は、地中海と大西洋の関門ジブラルタル海峡を越え、ビスケー湾、ブリテン海峡、北海に到る、ほぼ西洋全域を網羅するものとしています。
すなわち、この時代、ヨーロッパ全域にまで、このような悪い風習が行われるようになったとしています。
大西洋を渡り、大陸南端のホーン岬を超え、太平洋の南北アメリカを北上し、この地にやって来るような船乗りや商人たちは、沿岸航行において、このような危険があることを重々注意すべきこととして肝に銘じていたことでしょう。
西洋人が見た、音吉の絵手紙は、西洋沿岸で繰り広げられる難破船の略奪の光景にすっぽりと当て嵌まってしまったのでしょう。
従って「略奪に忙しいインディアンから、奴隷の身となっていた三吉を救助した」という西洋人の見解は、かれらの母国で繰り広げられる沿岸への懸念がもたらしたもので、かかる事情から、彼らの偏見と見ることが出来るようです。
実は、西洋人は、三吉の救出にあたって、人道主義のほかに重要な意義と価値を見出していました。

⑥ 西洋人が見出したもう一つの価値

西洋人が、西部コロンビア河口付近のアストリアに毛皮の交易所として砦を築いたのは1811年のことです。イギリス政府は、その独占権をハドソン湾会社に与えました。
以後、ハドソン湾会社は、いわゆる太平洋西側斜面に次々と拠点(フォート=砦)を築いていきます。
ロッキー山脈を越える大陸横断のルートも確保します。後に、ラナルド・マクドナルドがレッドリバーを目指した街道です。
西洋の発展とともに、当地での毛皮の交易も順調に伸びていきます。
そこへ入植した西洋人には、密かな楽しみがありました。
それは、ハドソン湾会社の代理人バーニー氏の証言「日本の陶器をいくつか受け取った」からも窺えますが、現地アメリカ民族が所持している美しい磁器や調度品の私的な交易でした。聞けば、それは西海岸へ打ち上げられた漂流物を拾い集めた物という。その漂流物は、毎年、結構な量にのぼっていました。

“潮騒令和塾”第6回音吉講座資料より

今でも、その集落跡のマカ族記念館では、丹念に発掘調査が行われ日本からのものと思われる磁器も掘り出され復元されています。

西洋人は、その高度な技術に裏打ちされた漂流物を眺め、一体、その源はどこでいかなる民族であろうかと想いを馳せていました。
そんな折、その源となるところから、三人が漂着したらしいというのです。
三吉の漂着は、彼らにとって、漂流物の源を解き明かすまたとない貴重で重要な生き証人なのです。
従って、マクラフリンの人道主義を待つまでもなく、彼らが三人の身柄確保に力を注いだことは容易に想像できます。
彼ら西洋人には、未知の世界への探検心と未開の地を開発する冒険心を大いに駆り立てるものがあったのでしょう。

三吉の漂着にあたっての三者の認識の違いは、音吉が書いたと思われる絵手紙が、西洋人の沿岸航行の危険性の認識と結びつき、このような表現となってしまったようです。マカ族の好意は、文明という武器のもとに行動する西洋人の見解にかき消されてしまったようです。
ここで改めて言えることは、厳冬の海に放り出された三吉が、マカ族の救出がなかったならば、三吉のその後はないことは確かなことです。
その中の音吉は、狙い澄まして漂着したこの地に、力強く芽吹いたのでしょう。
しかしながら、原始生活を営むマカ族にあっては、三吉が祖国へ帰る夢は望むべくもありません。
そんな彼らが一縷の望みを託して発信した絵手紙は、このような事情を西洋人に喚起し、三吉が自らの活路を見出したドラマチックなものとなりました。

(2)マクラフリンの着想

① 英国圏に入った最初の日本人

 三吉は、ハドソン湾会社に引き取られることによって、漸くにして陽の当たる場所へ来たことも確かなことです。ラーマ号での航海といい、フォートバンクーバーの活気といい。
ここでは、三吉は、14ヶ月に及ぶ漂流の苦難を乗り越えた英雄であり、頑なに国を閉ざし神秘に満ちた日本の実態を紐解く生き証人なのです。
彼らの共通した日本の認識は「交易を知らない国が、独特の文明を築き、清潔で秩序ある不思議な世界を築いていることはとても理解しがたい」ものでした。
未だ辺境の地、アメリカ大陸西海岸を目指すような功名心あふれる西洋人は、日本という国の情報に耳を澄まし、オランダや中国からもたらされるわずかな交易品に目を凝らしていたのでしょう。
19世紀に入ると太平洋に捕鯨漁場が開拓され、日本近海が俄然騒がしくなってきます。
1778年、クックがサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)を探検してから半世紀、その地は中継基地として重要性が増してきていました。西洋人にとって日本が神秘の国だけでは済まされなくなってきました。
マクラフリンは、三吉をフォートにある学校に入れ、英語を学ばせます。
一方、三吉も、彼らの手助けがあれば、帰国の道が開けるのではないかと、意志の伝達方法である英語を、必死の思いで学んだことと思います。
ここでも思い浮かぶのは、ラナルドとタンガロの関係です。彼らは、2ヶ月弱で相当なコミュニケーションが取れるまでになったとしています。
この地での教育のレベルは、彼らとは、設備も教師も格段の違いです。そのことを思えば、相当高度な意思の疎通が図られるようになったと考えることが出来ると思います。
三吉の英語の習得が進むにつれて、マクラフリンにある着想が浮かびます。
それを、彼がロンドン・ハドソン湾会社会長と委員長へ宛てた1834年11月18日付の手紙を『奇談・音吉追跡』に見ることが出来ます。

昨年冬、フラッタリー岬付近で一隻の日本帆船が難破し、14人の乗組員の内僅か3人が救われた。そしてこの夏フォートラングレーに向かう航海中にマクニール船長が買い戻したのである。私は彼らをウォアホー(現ハワイ州ホノルル)に送り、可能な限り一番良い方法で母国へ帰れる道を見つけ出すため、彼らをウォアホーにとどまらせるのが最善だったかと思う。しかし私は彼らが最初にイギリスの勢力圏に入った日本人であり、英国政府がこの機会を喜んで、彼らを日本政府との交渉を始めるのに利用する努力をするなら、これらの日本人は大英帝国に行って学ぶ機会を与えられ、故国の人々に英国の偉大さや力を伝える適切な手段と信じる。 

()内筆者加筆

この手紙は、さらに続けて「私はまた漢字で彫られた木片を送ります。私の日本語の解釈が正しければ船の名前かと思われます。」と記し、遭難船の目的地や積荷に触れ、しめくくられています。
ここには、三吉の処遇に対して、マクラフリンの野心的な着想を思いついた経緯が述べられています。彼は「これらの日本人は大英帝国に行って学ぶ機会を与えられ、故国の人々に英国の偉大さや力を伝える適切な手段と信じる。」と。
おそらく、勤勉で、清潔で規則正しく行動する彼らの、生活態度を見てのことでしょう。
さらに、マクラフリンをその気にさせたのは英語の上達ぶりでしょうか。

② 三吉を見込むマクラフリンの提案

それは、上記の書簡から「英国政府がこの機会を喜んで、彼らを日本政府との交渉を始めるのに利用する努力をするなら」の記述に窺えます。彼は、三吉を教育することによって「二国間の言語による障害も乗り越えれそうだ」と言外に期待しているのです。
マクラフリンのこの着想により、三吉、特に音吉の運命は大きく旋回することとなり、もう一方の“日本開国の起源”と見ることが出来ます。
ラナルド・マクドナルドを勉学のため中部の中核都市レッドリバーへ送り出してから、約6ヶ月後のことです。
マクラフリンの夢を託されたのは、イーグル号、ダービー船長です。
彼の、ダービー船長に対する訓示は次のようなものでした。

貴下はオウヒーズ(ホノルル)に向けたものすべてを陸揚げし、アルデリッジ氏とアスクワーク氏はオアフで上陸、三人の日本人はイギリスへ連れて行ってください。そして私の願いですが、彼らの立場を理解して親切に扱い、旅が快適であるように気をつけてください。彼らにイギリスまでの衣服を十分に与え、また彼らが欲するなら他の小さな必需品も、ハドソン湾会社が支払いますから提供してください。

『同掲』ハドソン湾会社資料№10()内筆者加筆

ここに、冒頭、出てくるアルデリッジ氏とアスクワーク氏とは、ハドソン湾会社の開設間もないハワイ支店の補充要員でしょうか、それとも同社の代理人でしょうか。
そして、マクラフリンの書簡の文面には、三吉に対するいたわりと期待が強く滲み出ています。
おそらく彼は、三吉に対して「神に選ばれた君たちは、これから、イギリスと日本の架け橋となるべき役割を担っているのだ。」と言って送り出したに違いありません。
それに応えて三吉も、しみじみと心に誓うものがあったことでしょう。
このマクラフリンの一連の周到さから、実はこのとき、彼は、ハドソン湾会社のフォート・バンクーバー支配人として、もう一通の書簡を中国の貿易監督庁宛へ送り届けるよう、ダービー船長に授けていたのではないかと思っています。
それは、ロンドン本社へ宛てた書簡を捕捉する内容で、ニュアンス的には以下のようなものと考えています。

間もなく、そちらへ、三人の日本人が、ロンドンから、重要な任務を帯びて送られて行くはずです。
その日本人とは、二年ほど前、太平洋で遭難し、14ヶ月もの間漂流したのちアメリカ北海岸に漂着した哀れな若者たちです。私の解釈が正しければ彼らが乗っていたジャンクは、宝順丸という船です。
私は、彼らが原住民の奴隷として使役されていたのを救い出して教育したところ、勤勉で性格もよく、知能が高い優秀な人材であることに気が付きました。
そこで、私は、彼らを日本へ帰還させる方法として、直接そちらの貿易監督庁へ依頼するよりも、この機会を利用して交易が開けないか本国政府に提案するとともに、三人をロンドンへ送り、政府の判断に任せることとしました。きっと、本国政府は、私の提案を受け入れるものと思います。
彼らは、そのときの折衝役(通訳)として、また、西洋の文明を体得した日本人として苗とも種子ともなり得る人材です。
従って、彼らがそちらに到着するときは、日本との交易を開くための重要な任務を帯びているはずです。
その趣旨をよく理解されて対処していただきたい。

このような内容の書簡を、マクラフリンは、ダービー船長に、ハワイから中国へ発信するよう託けていたのではないかと思っています。
その書簡の根拠として、マクラフリンの強い思いのほかに加えて、二点挙げられます。
まず第一点目として、第2章「生立ち篇」の“エリオットの報告書”でも述べたことで重複は避けますが、当時、香港貿易監督庁次官の彼は、彼自身が三吉の日本送還に異常なほどに拘っていたことが挙げられます。
第2点目として、通訳官であり宣教師でもあったギュツラフが『ヨハネ伝』の和訳を一年で完成させるという手際の良さがそれです。
このことは、もしかしてギュツラフは、マクラフリンの提案に我が意を得ていて、やがて来る日本人をクリスチャンに改宗させたうえで、日本に連れて行こうとしていたのかも知れません。
従って、エリオットとギュツラフは、日本人三人が送られてくるのを事前に知っていて、満を持して待っていた印象を持つのです。
結局、三吉の日本送還は、マクラフリンやエリオットの願いは受け入れられず、英国政府の冷めた対応でご破算となりますが、ギュツラフの『ヨハネ伝』は、日本最初の和訳聖書『約翰福音之傳』として燦然(さんぜん)と日本の歴史に残ったことは第一章で述べたことです。
マクラフリンの厚い思いを乗せたイーグル号の出帆は、11月25日でした。アメリカ西海岸に漂着してから10ヶ月経っていました。

(3)ハワイ寄港

① 活況のハワイに入る三吉

クリスマスの12月24日、イーグル号は、最初の寄港地、ハワイのホノルル沖へ到着しました。そして、ハワイには2週間ほど滞在し、翌年の1月10日に出帆します。
イーグル号のハワイに停泊した期間が2週間と比較的長かったのは、荷役作業や補給のみならず開設間もないハワイ支店の支援があったと思われます。
当時のハワイは、カメハメハ三世の統治する時代でした。すでに欧米の進出著しく、最早太平洋の孤島ではない重要な位置を占めるようになっていました。
18世紀の末、ニューイングランド、すなわちアメリカの東部沿岸の商人や海運業者は、太平洋横断の極東航路を開き、その交易から巨利を得ていました。ハワイはその重要な中継基地でした。
それのみならず、ハワイ島に自生する白檀の木が中国人に好まれることがわかり、特産品として大量に輸出されるようになります。ハワイの産物による交易の始まりです。
ところが白檀は、あまりの中国の強い需要に濫伐され、早々に交易品目から姿を消します。米中の商人が次に目をつけたのがサトウキビ(甘蔗)でした。
彼らは、中国で奴隷まがいのクーリー(苦力)と呼ばれる労働者を雇って製糖所を創業します。砂糖は、白檀に変わって、ハワイの特産品として成長していきます。
その上に、1820年、太平洋に鯨の好漁場が発見されるや、捕鯨船が新鮮な水や食料の補給、鯨油の中継基地として大挙やって来るようになったのです。
ハワイの地理上・商業上の重要性が増すにつれハドソン湾会社は1828年、ホノルルに進出します。そして、1834年8月には支店を設けます。イーグル号がハワイに到着する、わずか4ヶ月前のことです。
ダービー船長は、三吉について、マクラフリンから「私の願いですが、彼らの立場を理解して親切に扱い、旅が快適であるように気をつけてください。」と訓示を受けています。
いってみれば、三吉は“イーグル号の賓客”です。
おそらくダービー船長は、この賓客を、当地に進出間もないハドソン湾会社のハワイ支店の社員に引き合わせていたに違いありません。過酷な環境に耐えた英雄として、またアメリカ西海岸に君臨する誉れ高きマクラフリン期待のスターとして。

当時のハワイは、教育や文化の面でも向上著しいものがありました。
ボストンに本部を置くキリスト教のアメリカン・ボード(アメリカ海外伝道協会)は、1820年、17名の宣教団をこの地ハワイへ派遣していました。
以来、およそ15年の布教活動が実を結び、多くの信者を持つようになっていました。
なかでもリーダー的存在のハイレム・ビンガム師は人望が厚く、多くの島民に慕われていました。
現在、日本に、当時のハワイの様子や、このビンガム師はじめ宣教師について語った書物が残されています。
それは『蕃談(ばんだん)』という書物です。
その『蕃談』とは、幕末の儒学者、古賀謹一郎(注―3)が、越中富山の長者丸の漂流民次郎吉の、ハワイをはじめ海外での体験を聞き書きした漂流記です。
次郎吉の体験は、三吉がハワイを通過してから4年半後のことですが、状況はその頃とさしたる違いはないと思います。
次郎吉の体験談『蕃談』を括目して読むと、音吉を調べるうえで注目される記述が何ヶ所かあります。ここでは、主なそれらをピックアップして、当時のハワイの状況を覗いてみたいと思います。
なお、私が依拠した『蕃談』は、平凡社発行の東洋文庫39、室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談 漂流の記録1』です。この書は、両氏の解説に加えて、同じ漂流民であった長者丸の乗組員が、故郷の金沢藩の事情聴取を受けたさいに記録された『時規(とけい)物語』(注―4)があり、それと比較比定しながらの編訳で、より実話に迫った書物となっていると言えます。

② 次郎吉のハワイの体験談(『蕃談』から)

◆『蕃談』の概略と古賀謹一郎

1838年(天保9年11月)、650石積みの長者丸(乗組員10名)は、昆布などを積み仙台唐丹(とうに)湊(現岩手県釜石市)を出帆しましたが、翌朝には嵐に巻き込まれ遭難します。太平洋上を約5ヶ月漂流した後、アメリカの捕鯨船、ジェイムス・ローバー号に救助されます。
すでに3人が亡くなっていました。救助された7人は、約5ヶ月間、同じ太平洋で捕鯨活動をする3隻に分乗して船上の生活をします。ハワイにそれぞれが上陸したのは、翌年の1839年(天保10年9月)ごろでした。ハワイで約10ヶ月滞在した後、日本への帰国を目指して、1840年(天保11年7月)、ホノルルを出帆します。カムチャッカのペトロパブロフスク、オホーツク、アラスカのシトカへと移動しながら帰国のチャンスを窺がいます。
ついに1843年(天保14)ロシア船によって択捉(えとろふ)島に帰還を果たします。
ハワイで船頭の平四郎が亡くなり、6人が約5年ぶりに祖国の土を踏みました。
彼らは、江戸に送られ取調べを受けましたが、次郎吉の要領を得た話しぶりや、図解を用いた表現力が評判となり、多くの儒学者が次郎吉を藩邸に招き海外事情を聞きただしました。その中に、特に熱心な古賀謹一郎は「憂天生」というペンネームを使い、次郎吉からの口述として『蕃談』を著しました。
この書には随所に幕府批判ともとれる表現や示唆があり、忌諱(きい)に触れるのを恐れて実名を伏せたようです。
一例をあげるならば、序文などもすでにそれが現れています。
少し寄り道になりますが、その時代の国内事情と有識者の憂国の思いをよく表わしていますので、あえて以下に引用します。
その序文は、晋の桃源郷の故事を引き合いに出し、為政者への強い警告の一端をのぞかせています。

その昔、中国の晋の時代に、ある漁夫が平和な桃源郷を訪れて、人々にその物語を聞かせた。しかし聞く者みな半信半疑で、ついにその慎偽を確かめ得なかったという。今、私は漂流民の話を聞きつつ、また晋の代の人びとに似た思いにうたれる・・・・・(中略)・・・・・
この漂民は一介の舟夫でありながら、はるかなる海外の地を遍歴し、見聞するところ奇異にして雄大ならざるはない。その物語を聞く者の心を魅了せずにはおかないであろう。しかしながら、私には、なおこれとは別個の感想もわいてくる。かの桃源の楽土は遠い秦の世に人びとが乱世を避けて移り住んだところというが、一塊の泥土で洞穴の口をふさいだのみで、五百年間の治乱興亡をよそに、漢をはじめ魏晋の世の推移も知らず、その民は何代にもわたって世間から隔絶して暮らしてきたのであった。その人々が突然漁夫から現世の話を聞かされた時、その驚きとあやしみは、晋の人びとが桃源郷の話を疑ったのに、はるかにまさるものがあったことは明らかであろう。現今、世界五大州の列国は雲とみだれ虎のごとくに争い、あるいは帝と称し、あるいは王ととなえ、強国弱国並び立って平和な日とてはない。しかるにわが国は、ひとり大洋中に孤立して他国と交渉することなく、しかも二百年来さかんな聖徳の教化に浴し、万民は楽しんで太平を謳歌するのみで、世が乱れ国が亡びることがあろうなどとは想像もしていない。日ごと平安にその業を楽しむこと桃源郷とえらぶところはないであろう。さればこそ、私は漂民の物語を聞き、われわれの感ずるところは、実は桃源郷の人びとのそれであって、晋の人びとのそれであるべきではないと思うのである。
          嘉永二年巳酉十二月   憂天生増(まさる)しるす

『蕃談』序文

語り手の次郎吉を、中国の晋の桃源郷に旅し、その状況を伝えた漁夫にたとえ「今の日本は桃源郷の人々の驚きであって、決定的な危険が迫っているのに気がついてはいないではないか」と謹一郎、苦心の書き出しです。文中「一塊の泥土で洞穴の口をふさいだのみで」とは、日本の脆弱な防衛力を表しているのでしょう。
この序文は、安全保障の問題で現代にも通じるものがあり、島国日本の国民性に、時代を越えて警鐘を鳴らしているようにも読み取ることが出来ます。
末尾の署名の行の日付「嘉永二年巳酉十二月」は、1849年末か1850年初めのころでしょうか。
謹一郎が次郎吉から体験談を聞き書き始めたのは、1845年(弘化2)とされ、完成には5年を費やしています。
その頃、海外から、日本へのアプローチが頻繫に始まっていました。
1844年には、オランダ国王から「中国のアヘン戦争の二の舞にならないように」と、日本へ開国勧告の書簡が長崎に届いています。
西洋の捕鯨船の侵犯事件も各地から報告されるようになりました。前章で述べたマンハッタン号の浦賀への強行入港は1845年です。
続いて、翌年には、アメリカの使節ビッドルが大統領親書を携えて開国の交渉に、同じ浦賀へやって来ています。
モリソン号に端を発した『蛮社の獄』から6年経過していましが、渡辺崋山や高野長英の警告どおり海外からの足音は日増しに確実に大きくなって来ていました。
憂国の師、古賀謹一郎の前に、格好の代弁者が現れたのです。
その『蕃談』の記述の中でも特に注目するのは、以下の三点です。
第一点目が、”ある西洋人”の日本に対する怒り。
第二点目は、越後の漂流民。
第三点目は、ベイナン牧師として登場する宣教師ハイレム・ビンガム。
これらの事項は、当時のハワイの状況を知る上で嘱目に値するもので、次に見ていきたいと思います。

◆ “ある西洋人”の日本に対する怒り

それは、”ある西洋人”が、次郎吉たちに語って聞かせた、日本政府に対する怒りです。このくだりを引用すれば、

「日本は、こちらが漂民を送り届けにいくと、いきなり大砲をうちかけてくる。まったく無茶な国だ。たとえてみれば、迷子をその家に連れていってやったのに、その父親が礼をいうどころか石を拾って投げてきたとしたら、連れていった人は、決していい気持ちはしないだろう。お前たちは、いわば日本のケン〔王=キング〕のこどもではないか」と、子供をひとりつれてきて、身ぶり手ぶりで説き聞かせてくれた。

『蕃談』巻三の三雑録より

この“ある西洋人”は、次郎吉たちを前に、漂流民に対する日本政府(江戸幕府)の対応を批判しているのです。
この彼の語りは『モリソン号事件』のことを言っているものに違いありません。彼は、以前、たまたまハワイを通過した日本人(宝順丸漂流民=三吉)がその後、日本へ帰国できなかったことに対して、次郎吉たち長者丸漂流民に怒りを露わにしているのです。
当時、ハワイへ伝えられる情報は、商人や海運関係者の交易船から直接もたらされるものや、情報誌によるものがありました。情報誌には、中国からは『チャイニーズ・レポジトリー』、アメリカからはアメリカン・ボード機関紙『ミショナリ―・ヘラルド』などがありました。
ハワイの重要性が増す中、アメリカや中国、及びその周辺の事件や事故は、その情報網によって素早く伝えられていたのでしょう。彼らが、日本に関する情報に、極めて危険な国として、耳目を集めていた様子がよくわかります。
次郎吉たちがハワイに滞在した時、すでに『事件』から2ヶ年の歳月が流れ、これらの情報網を通じて詳細が知れ渡っていたことは容易に想像できます。
次郎吉に語りかけた“ある西洋人”とは、この感情の入りようからして、以前、三吉がハワイに立ち寄った際、何らかの形で三吉と接触した人に違いなく、三吉が無事に日本へ帰り着くことが出来たかどうか安否を気遣っていた、おそらく、ハドソン湾会社の社員か関係者のことのでしょうか。
一方、謹一郎は、この次郎吉の闊達な語りに、大いなる感慨を持って聞いていたに違いありません。なぜならば彼は、この話が1839年に起こった“蛮社の獄”の発端の事件として認識があったはずだからです。
これは、第1章「モリソン号事件」でも記したことですが、この“蛮社の獄”とは、モリソン号が日本人漂流民を乗せて日本(長崎)に来ていたことが伝えられ、それが“尚歯会”に情報が洩れ、メンバーの渡辺崋山が『慎機論』を、高野長英が『戊戌夢物語』を著わし、それぞれ幕府批判が発端に起こった疑獄事件と。
実は、この一年前の1838年に、彼の父である古賀侗庵は、これと同じような内容の書籍『海防憶測』全2巻を発表しています。しかもそれは、やがて禁書(注―5)となっています。
その『海防憶測』とは、国立公文書館ホームページによれば「侗庵は、国土が狭いイギリスが、海軍力によって世界の強国になりアジアの大国清を蹂躙した事実に注目し、イギリスを範とし清国を反面教師にせよと論じています。またキリスト教を恐れるあまり鎖国政策を続けるのは時代遅れで、日本はむしろ海軍力を強化して積極的に海外に乗り出し、貿易で国を富ますべきである」とかなり大胆に踏み込んだ内容のものでした。
従って、この『海防憶測』を禁書にする措置は、当時の幕府の鎖国堅持政策から当然のことであったと言えます。
さらにこの公文書館ホームページの記述は「古賀侗庵(1788-1847)は、渡辺崋山や高野長英らとの交際を通じて知見を深め、独自の開国論を展開しています。」とも記されていて“尚歯会”メンバーとは気脈を通じていたことを窺わせています。
このことから謹一郎の父侗庵が“蛮社の獄”の巻き添えを食わなかったのは、不思議なくらいです。ある意味『海防憶測』の発表が一年早かったために、発禁措置のみで、連座を免れたと言えなくもありません。
この謹一郎は、次郎吉の話を、いまだほとぼりの冷めやらぬ“蛮社の獄”を思い浮かべつつ聞いていたのでしょう。

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