「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」の謂れと私のこだわり
岐阜県東白川村の役場前、縦に4分割された石碑が建っています。
これは、明治初年(1868年)神仏分離令により「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」運動が起こり、その巻添えとなった石碑です。岐阜県東白川村は、当時、苗木藩(なえぎはん)領(りょう)で神道(しんとう)の熱心な土地柄でした。そのため日本全国のなかでも「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」が最も激しく吹き荒れた地域のひとつで、村内の2ヶ寺は徹底的に打ちこわしに遭(あ)いました。
この石碑は苗木藩主の菩提寺雲林寺の住職遂安の筆によるもので、天保(てんぽう)6年7月(1835年)に村内2ヶ寺の内の常楽寺の山門わきに建立されました。この石碑も、例外なく(明治3年)打ち砕かれる命(めい)を受けていました。
しかし、このとき、危うく最悪の難は逃れることが出来ました。制作者の石工(いしく)伝蔵が高遠(たかとう)村から呼ばれたことです。彼の手により、節理(せつり)(規則正しい岩石の割れ目)に従って、縦に4分割されました。そして、名号(みょうごう)を伏せて池や畑の脇石や踏み石とされました。
それから約半世紀、熱(ほとぼ)りの冷めた昭和10年(1935年)、地元の有志によって、もとの位置に再建されました。ちょうど建立(こんりゅう)から100年、経過していました。まさに伝蔵の執念が籠った奇跡の石碑でした。
私は、この歴史の傷跡を今に伝える「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」に、同時代を生きた音吉の姿が重なり合って見えます。すなわち、音吉はシンガポールで終焉(しゅうえん)を迎えますが、音吉たちが関わった日本最初の和訳聖書『約翰福音之傳(よはねのふくいんしょ)』(ギュツラフ訳)が同志社大学に贈られたのは1938年です。音吉たちの漂流からの百年は、ほぼこの石碑の歴史と重なります。
さらに、この石碑と音吉たちに、私が感慨を持って観るものがあります。
それはこの石碑に刻まれた名号(みょうごう)です。音吉たち三吉は、聖書『約翰福音之傳(よはねのふくいんしょ)』の冒頭(ぼうとう)の言葉に“ハジマリニ カシコイモノ ゴザル”という言葉を選びました。現代訳は“始まりに言葉があった”となっています。英文では、“In the beginning was the Word”なる文です。私には、三吉の想いのなかに“ザ・ワード”は“南無阿弥陀仏”の名号でなかったか、と思えてならないのです。マカオに於いて、宣教師(せんきょうし)ギュツラフのもと、身を寄せ合いながら、望郷(ぼうきょう)の念を募(つの)らせていた三吉を想像するとき、“ハジマリニ カシコイモノ ゴザル”という言葉は. 厳しいキリシタン禁制(きんせい)の下に育った三吉にとって、彼らが見出したギリギリの言葉でなかったかと。
音吉が生まれた頃、知多半島に新四国八十八カ所巡りが開設されました。彼の菩提寺(ぼだいじ)、良参寺(りょうさんじ)は、その四十八番札所(ふだしょ)です。彼の少年期には、白装束(しろしょうぞく)に身を包んだお遍路(へんろ)さんが街道(かいどう)を賑(にぎ)わせていたのでしょうか。その良参寺(りょうさんじ)には、宝(ほう)順(じゅん)丸(まる)の乗組員14人の菩提(ぼだい)が祀(まつ)られています。
また、この石碑の建立(こんりゅう)の発起を考えるとき、当時、日本列島を襲(おそ)った未曽(みぞ)有(う)の大飢饉(だいききん)“天保(てんぽう)の飢饉(ききん)”と何か起原(きげん)に関係があるようにも思えます。すでに音吉たちは海の彼方(かなた)にいて、幸か不幸かこの厄災(やくさい)には遭(あ)っていません。
私は、伝蔵が南無阿弥陀仏碑に第一刀を入れたそのときの決断と、いつの日かの復活を信じつつ涙ながらに4分割したであろうその作業に、共感せずにはいられないのです。
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音吉伝――知られざる幕末の救世主―― 改訂版
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