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『音吉伝』(1) はじめに

幕末、日本がヨーロッパ列強に主権や領土を侵されることなく、維新改革が実行できたことは何とも不思議なことでした。
その不思議なことを、よくよく調べてみると、ある人物が、浮かび上がってきます。その人物は、幕末の史実に、いろんな場面で関わり合いを持ち、影響を与えていることが判ります。
その人物の名を、音吉(イギリスに帰化したのちはジョン・M・オトソン)といいます。
音吉の足跡は、結果的に見て、日本で最初の国際人、近代日本の起点となった人といえると思います。すなわち“幕末のすべては音吉から始まった”といっても決して過言ではないと思います、
この書は、埋もれたその音吉の生涯を綴ったものです。
今から、そんなに遠くない幕末にあって、まだ、こんな人が埋もれていたとは、いささか信じがたいと言われる人も多いと思いますが真実の物語です。

1832年12月(天保3年10月11日)音吉は、尾張から江戸に向かう弁財船宝順丸(1,500石積み)、尾州小野浦村(現愛知県知多郡美浜町小野浦)所属、船頭、樋口重右衛門以下13人乗組み)に乗り、江戸に向かいます。遠州灘に差し掛かったとき、折悪しく天候が急変します。宝順丸は冬の嵐に見舞われ遭難します。当時、音吉は一介の水夫(炊見習い)で14才(1818年=文化15年生まれ)でした。
音吉は、その後、世界各地を漂泊したのち、異国の地にて才能を開花させ、やがて一家を成し、数々の歴史的事件に関わり、シンガポールで1867年、事業の成功とは裏腹に、望郷の念を抱いたまま、49才の生涯を閉じます。
当時、産業革命を進展させ富の拡大をはかる西洋各国は、その技術力、軍事力にものをいわせ、世界各地に競うように侵攻して行きます。なかでも、産物が豊かで大きな市場を持つアジアの国々は、彼らにとって垂涎の地でした。
欧米人の世界各地への進出の精神的なよりどころは「未開の地の開発」であり「非文明の地の文明化」でした。キリスト教文明国家にとって、交易の理は、神からあたえられた当然の道理で、それから得られる利益や利便性を、人々は等しく享受しうるとしているのです。この理論武装で侵攻していったのです。
イギリスが良識をもかなぐり捨てて引き起こしたアヘン戦争は、中国(清国)の惨敗に終わります。遂に、延々4千年の歴史を持つアジアの覇者中国は、1842年、屈辱的な降伏条約『南京講和条約』を結ぶに至ります。世界の中心は中国という、いわゆる“中華思想”の誇りは崩壊します。
ひとつの見方からすれば、日本はこの時点で、勢いを増す西洋列強の荒波に対して、中国という高い防波堤を失ったことになります。西洋列強にとってみれば、日本も植民地の対象になりうる条件が整ったことになったのです。
この圧倒的技術力を背景に、いよいよ極東の地、日本にもジワリ欧米の食指が動いて来きました。国を閉ざすこと(鎖国)を国是としている日本はもってのほかの国で“干戈(武力)をもってしてでも正さねばならない”としているのです。
あの幕末、このように日本は焦眉の急を告げられていました。
しかし、当時の日本を振り返ってみると「尊王だ、佐幕だ。攘夷だ、開国だ。」と蟻の巣を蹴散らしたように騒擾としていました。とても、日本という小さなコップの中の争いごとが許される場合ではなく、挙国一致、国難にあたらなければならない時でした。
西洋列強がアジアを拠点に日本を窺うその地にあって、音吉は、洋の東西や、身分の階層を問わず多くの人に信頼を得、尊敬の眼差しで受け入れられていきます。
音吉の海外での活躍は、西洋諸国の日本や日本人に対する偏見をなくし、認識を新たにしていきます。
それは、日本の近代化に欠かせない優秀な知識人を、日本に招き入れることにもつながっていきます。
1862年5月、文久の遣欧使節団の一人淵辺徳蔵は、シンガポールを通過したとき、はからずも音吉に接待を受けます。彼は、音吉の豪勢な暮らしぶりに目を見張り、その様子を日記(欧行日記)に記しています。徳蔵はこのとき、イギリスの初代駐日公使ラザフォード・オールコックと通詞森山多吉郎(栄之助改め)に同行していました。この二人はそれぞれに音吉と縁浅からぬ関係です。特に、音吉と多吉郎の対面は、まさに神のみぞ知るものでした。ここのところは音吉にとって象徴的な出来事で、本文で何回か引用する機会があるものと思っています。
自国の栄光を振りかざし、野心に満ちて行動する欧米人のなかに、音吉は順応し溶け込んでいたのです。
私は、音吉が日本の“知られざる救世主”と思っています。彼が“もし”いなかったら日本の歴史は大きく変わっていたのではないだろうかと思っています
残念ながら、今のほとんどの日本人は、音吉を知りません。音吉の名や業績について尋ねてみても「そんな人、歴史で習ってない」と一様な言葉が返ってきます。
音吉が歴史で語られない原因を考えてみるに、主なものとして以下のことが考えられます。
まず、彼が終生、日本に帰ることなく、異国の地で果てたことにあります。
同じ漂流民でも、ジョン・万次郎や、ジョセフ・彦のように、欧米の文明を身に着けて日本に帰国を果たし、間近に華々しい活躍を見ることができなかったことがまず挙げられます。
さらに云うならば、幕末のダイナミックに維新回天する世の中にあって、明治政府が政権維持のため、都合の悪い史実や幕府側の史実は、早々に糊塗隠蔽してしまったことも考えねばなりません。
あるいは、その反対に徳川幕府が結んだ各国との条約を、状況や経緯もわきまえず「不平等条約」として声高に吹聴もしました。近年、見直しや再評価がなされ改まってきてはいるようですが、まだまだ充分とはいえないようです。
次に、音吉の場合、自ら発した手記はなく、音吉を示す資料がきわめて少ないことが挙げられます。音吉自身は、自分が偉人とか成功者とは思っていなかったのでしょう。
従って音吉の人間像を作り上げるには、わずかに顔を出す史実を頼りに、地道な状況証拠の積み重ねをするより手がありません。ここが史実主義の歴史学に相容れられない、すなわち、歴史教科書に載らない原因がありましょうか。
もし厳格にそれを受け止めるならば、この書は『音吉の資料発掘手引書』という言い方のほうが適切なのかも知れません。
音吉の足跡を眺めたとき“史実がない、想像仮説は禁物”と云って手をこまねいていていいのでしょうか。
史実に忠実な歴史小説家として知られる、吉村昭氏は、次に『音吉』を書くのだといって精力的に取材活動をしておられたそうです。吉村氏は、多くの史実に関わり合いを持つ音吉に巡り合うのはそんなに難しくないが、どこを掘っても、どこまで掘っても、音吉の気配はすれども資料が出ない。こんな底なし沼を掘るような経験をされていたことと想像します。その吉村氏が志半ばで斃れられたことは何といっても残念です。
そこで、音吉を評価するうえで考えなければならないのが歴史教育の在り方です。
音吉を見るときは、必ず日本史の眼、世界史の眼と両方の眼で見ないと、特異な音吉の本来の姿が見えてこないのです。
たとえば、3D仕様の立体画像を3D用メガネなしでみれば映像がただダブって見えるだけです。音吉のようにそのダブりの部分に生きた人間には、日本史、世界史と明確に分けた現在の教育では光が当たりにくいのです。
中でも音吉が深くかかわった「モリソン号事件」や「ペリーの黒船来航」などはよい例です。
日本の一大事「ペリーの黒船来航」などは音吉が幾重にも関わっているにも拘らず、日本史の眼から見ると、“おときち”の“お”の字も出てこないのです。
そもそもが、先史時代ならいざ知らず、近世近代に到って日本史、世界史と分けること自体が不自然ではないのでしょうか。
これらのことから、私たちは、音吉を知る機会がなかったのです。

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今後の予定としまして『音吉伝』10章を、月末に各1章ずつ/300円、公開していきます。どうぞよろしくお願いいたします。

三浦綾子著『海嶺』に出会い、江戸末期の漂流民音吉を知った。こんな偉人が埋もれていたとは今更ながらに驚いた。彼の地に日本の民主主義を芽吹かせ…

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