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第3章  漂流

(1) 東日本大震災による第11漁運丸の漂流

2011年3月11日、東北沖で起きたマグニチュード 9.1の東日本大震災は、発生とともに未曽有の大津波を引き起こしました。この津波により多くの物が太平洋に流れ出ました。なかでも第11漁運丸の漂流は象徴的でした。
大震災の日、青森県八戸港に係留されていた漁船が、太平洋に流され、およそ一年をかけてアメリカ大陸西海岸にまで到達したのです。
2012年3月26日の新聞各紙は、カナダ沖を漂流する第11漁運丸の錆にまみれた痛ましい船体を写真入りで報道しています

2012年3月26日朝刊で伝える漁運丸の漂流図

この新聞記事の伝えるところによれば、
「カナダ運輸当局などによると、東日本大震災の津波で流された日本の漁船を、カナダ西部クイーンシャーロット諸島沖合約220㎞付近でパトロール中の航空機が見つけた。」と。
その後、第11漁運丸は引き取り手もなく、海の障害物となる危険性があるため当局によってはかなくも沈められました。
この衝撃的なニュースは、およそ180年前の宝順丸の漂流を彷彿させるものでした。
1832年初冬、宝順丸は、ほぼこの第11漁運丸の漂流跡をたどり、遭難後12ヶ月のころ、北アメリカ西海岸沖合、同漁船の発見現場に近い海域にたどりついていたものと思われます。
宝順丸が、現アメリカのワシントン州オリンピック半島アラバ岬に漂着するのは、さらに2ヶ月後のことでした。
北太平洋では、日本近海から、寒流(親潮)と暖流(黒潮)が北緯35~45度の間をともに並行して東に向かます。それが、日付変更線を過ぎたあたりから、寒流の一部は徐々に北のアリューシャン列島方面に流れを変えていきます。残った寒流の一部と黒潮続流と呼ばれる暖流はなおもアメリカ大陸を目指します。その流れはやがて、アメリカ大陸沿岸に到達し、それぞれ南北に進路を変えていきます。
宝順丸と第11漁運丸は、この東進するふたつの潮流に乗ったのでしょう。
この第11漁運丸の漂流は、震災の規模の大きさを物語るだけでなく、宝順丸の漂流をも思い起こさせる感慨深いものでした。

(2)宝順丸出帆

① 鳥羽日和山

よく晴れた日であれば、三重県鳥羽市の日和山から遠州灘を望めば、坂手島、菅島越しに、遥か御前崎、その先にかすかに石廊崎を見ることが出来ます。距離にして、御前崎までおよそ120㎞、石廊崎までは180㎞の船路です。
鳥羽湊のすぐ裏手にある日和山は、海抜69mと小高ながら三重県が指定する“主要な視点場”に登録されています。登録にあたっての視対象は、鳥羽市街地・鳥羽港・答志島・坂手島などとなっていて、コメント欄には「鳥羽三山の一つで、小浜町から安楽島(あらしま)町まで一望できます」とあります。
今でこそ訪れる人も少なく、山頂の方位石(注―1)も草に覆われがちのようですが、太平洋へ乗り出す当時の船頭には重要なところでした。
江戸へ向かう廻船にとって、鳥羽から先、伊豆半島の下田までは一気の行程です。それでも、順風であっても下田までは、丸一日はかかります。
日和山での船頭やそれを補佐する楫取の天候の見極めは、出船にあたって通常の任務でもありました。

② 宝順丸の人員構成

この時の宝順丸(1500石積み)は、尾張藩の御用船としての色合いが強く、熱田は宮の湊で、藩米や正月の恒例の献上品などを積み込んでいました。宝順丸は、この志州鳥羽湊(現三重県鳥羽市)に船掛りしたのち、江戸に向けて、運命の船出をします。
宝順丸には、以下の14名が乗り組んでいました。
  船頭・・・・・・樋口重右衛門(船主、源六の倅)
  水主頭・・・・仁右衛門
  梶取・・・・・・岩吉(岩松とも・熱田宮出身)
  岡廻・・・・・・六右衛門
  水主・・・・・・利七(金衛門の倅)
  水主・・・・・・三四郎
  水主・・・・・・常次郎(弥右衛門の倅)
  水主・・・・・・吉次郎(武右衛門の倅・音吉の兄)
  水主・・・・・・政吉(野間一色出身)
  水主・・・・・・千之助(伊勢若松出身)
  水主・・・・・・勝五郎(新居ヶ浜出身)
  水主・・・・・・辰蔵(伊勢波切出身)
  炊・・・・・・・・久吉(又平の倅)
  炊・・・・・・・・乙吉(音吉)(武右衛門の倅・吉次郎の弟)

千石船には、船頭(船長)の下に、水主頭(かこがしら)・楫取(かじとり)・岡廻(おかまわり)の三役が配されていました。
水主頭は、おやじとも呼ばれ、水主(かこ)の束ね役です。
楫取は、表士(おもてし)とも呼ばれ、潮や風を読み航路の決定をする航海士です。
岡廻は知工(ちく)とも呼ばれ、積み荷の商いや管理全般を担っています。
久吉と乙吉は、炊(かしき)と呼ばれる見習い船員です。久吉15才、音吉14才の時です。当時、船乗りとして身を立てる人はこのぐらいの年代で初航海を果たしているようです。
宝順丸の船頭は、船主源六の息子の樋口重右衛門です。三役には、水主頭に仁右衛門、楫取は熱田宮宿の岩吉が、岡廻は六右衛門が務めていました。
この中で、楫取岩吉が、名古屋の熱田宮の出身であることに目に留まります。
乗組み名簿から、乙吉は、兄吉次郎と兄弟での乗船です。
なお、“おときち”の名前は、日本での表記は乙吉だったようですが、漂着後はおときちの発音がサウンドラッキーと読めることから音吉としたようです。
乗組員は、ほとんどが小野浦、その近郊出身者で占められ、地元以外からは岩吉のほか、伊勢若松の千之助、同じく伊勢波切の辰蔵、さらに新居ヶ浜の勝五郎の四人です。
千之助の出身は、小野浦とは対岸にあたる伊勢若松 (現三重県鈴鹿市)です。ここは、かの日本とロシアの関係の端緒を開いた神昌丸の船頭、大黒屋光太夫の出身地でもあります。この光太夫のことについては、この「漂流」編で後にふれることになります。
辰蔵の出身の波切は、三重県側の伊勢湾岸で大王崎の内側に位置し、リアス式海岸でも英虞湾の最も奥まったところにあります。近くには千石船の造船所、大湊があります。
また、勝五郎の新居ヶ浜出身とは、浜名湖の近く新居関(あらいのせき)で知られる現在の静岡県湖西市新居(あらい)町、それとも瀬戸内海の四国のほぼ中央、新居浜(にいはま)なのでしょうか。宝順丸は、頻繁に瀬戸内海の塩を運んでいたことから考えられなくはありません。
宝順丸は、この面々を乗せて太平洋に乗り出しました。ときに、1832年11月3日(天保3年10月11日)のことです。

③ 宝順丸遭難

宝順丸の出帆期日は、後に、マカオにあってエリオットに対して意思表明した三吉の証言(第3章 生い立ち編参照)や、良参寺の過去帳によるものです。
しかし、最も新しい音吉に関するレポートで、宮永孝氏は『“オットソン”と呼ばれた日本人』の中で、次のような説を掲げられています。
それは、宝順丸が「天保3年11月20日、年貢の米・厚板・畳・絹や綿製品・酢・酒などを積んで尾張の港を出帆します。」そして「出帆した翌日、大風が吹いたので志州(鳥羽)の浦に入港し、そこに12日間滞泊致しました。」というものです。宮永氏は、この説をギュツラフの書簡に見出されています。
この宮永説によれば、宝順丸が実際、太平洋へ乗り出したのは、天保3年12月初旬ということになり、良参寺の過去帳などからの出帆日時から、約1ヶ月以上の差が出ます。
実際真相はどうであったか今となっては窺い知ることが出来ませんので併記しておきたいと思います。ただ、この記述で気にかかるのは「12日間の鳥羽湊での足止め」されたとあることです。
船頭樋口重右衛門は、尾張藩御用達の積み荷を「早く届けねば」との思いから、日和山の天候の見定めもそこそこに見切り発車的に判断が傾いたのではないかとも思われるからです。
「長雨の後は、江戸行には北西からの順風なはず」少なくとも下田までは乗り切れるであろうと経験上、判断が働いたのかも知れません。
雨が上がった運命の朝、冬の遅い夜明けを待ちかねて、楫取岩吉を伴い日和山に登ったことが想像されます。
明け切らぬ空はどうだったのでしょう。周囲には、ともに船掛りをしていた船頭たちの聞こえよがしの会話が交わされてもいたのでしょう。
いずれにしても、船頭樋口重右衛門は、直ちに出帆と決定を下します。

日中、北西からの順風を受けて遠州灘にあったものが、やがて、風向きがおかしくなります。はたして、その夜には再び雨模様となり、東からの風が強まります。風に流されまいと帆をたたみ、錨を下ろし必死の操船が続きます。
次第に激しく、とうとう嵐の様相を呈してきます。ついには打ち荷といって積載の荷物の投棄を決断します。
やがて、楫が荒波を受けて破壊されます。これにより、前後左右へと激しくゆすぶられ船の安定が著しく損なわれます。船頭重右衛門は、最終の決断、帆柱の切り倒しを決心します。嵐の最中、30メートルにも達する帆柱の切り倒しは容易なことではありません。非常な危険を伴います。苦渋の選択でしたが、無事帆柱を切り倒しに成功します。船体自体は堅牢な千石船は、これで転覆の危機からは脱出します。
それでも荒波は容赦なく宝順丸を襲います。次なる危機は、海水の浸水による水船となることです。全員が排水作業に追われます。
それでも、宝順丸は沈没を免れ太平洋のただ中をさ迷うことになります。
一旦、熊野灘あたりまで押し戻された宝順丸は、黒潮の流れにはまったのでしょうか北東に流されていきます。
繰り返しになりますが、黒潮は、日本列島に沿いながら房総半島沖に達します。そして、やがて宮城県金華山沖付近で親潮とぶつかり、ともに東へ向きを変えていきます。北太平洋を西から東に向かう巨大な潮の流れ、宝順丸の果てしない漂流の始まりです。
およそ14ヶ月にも及ぶ壮絶な漂流生活は如何なものであったのでしょう。
結果的に、岩吉・久吉・音吉の三人は、アメリカ西海岸に漂着し助け出されます。
その時の様子を、後年、久吉はアメリカンボード宣教師S・W・ウィリアムズに語っています。ウィリアムズが、1836年6月25日に、マカオからアメリカ本国に宛てた書簡によれば、久吉から聞いた話として、

真水の不足に苦しみ、さらに壊血病がひどく悪化していたために、彼の表現を借りますと、「自分たちの手足は樽みたいな太さに膨れ上がってしまった」そうです。

F・W・ウィリアムズ著、宮澤眞一訳『S・W・ウィリアムズ生涯と書簡』94Pより

この久吉の証言では、三吉は「ひどく浮腫んで」いて、壊血病でも重症な様相を呈していたことを窺がわせています。今では壊血病の原因は、ビタミンCの欠乏と解明されていますが、当時では、船乗りの多くが罹る原因不明の恐ろしい病とされていました。この証言は、三吉が漂流の果て、生存の限界に来ていたことを示す証言です。
彼ら三吉が、この長期漂流の厳しい困難をどうして凌ぎ切ることが出来たのか、この大きな疑問を考えるとき、ある必然的な因果関係が、そこには潜んでいるようです。
それは、宝順丸の漂流からさかのぼること15年前の1817年6月(文化15年5月)の話です。この年、ある人物が、尾張藩に帰ってきたことに始まります。

(3)尾張廻船と尾張藩

① 宝順丸の引き合いに出される督乗丸

その人物とは、督乗丸船頭重吉のことです。
彼は、1813年11月(文化10年11月)遠州灘で遭難し、宝順丸の漂流よりもさらに2ヶ月長い16ヶ月間(484日間)に及ぶ漂流の果て、イギリス船フォレスタ号(ピケット船長)に助けられ、当時ロシア領アラスカのシトカ、そして、カムチャツカのペトロパブロフスク(現ペトロパブロフスクカムチャツキー)を経て帰ってきたというものです。
宝順丸の漂流を語るとき、この重吉が船頭を勤めた督乗丸の漂流は共通点の多いことから、よく引き合いに出されます。そこで宝順丸と督乗丸の漂流の要点をまとめてみたのが、以下に示す比較表です。

宝順丸・督乗丸比較表

表からも分かるように、驚異的な長期間にわたる漂流、助けられたのがアメリカ西海岸、生存者が3人、本拠が同じ尾張廻船、船の規模等々、共通項が多くあります。
しかし、違いは、督乗丸の場合、生存者=船頭重吉と水主の音吉(宝順丸の音吉とは違うから注意が必要)が故国へ帰って来ていることです。
ここに、私は、宝順丸と督乗丸とが単に共通点のみならず、もっと直接的な因果関係が見出されるのではないかと思うのです。それは、三吉のリーダー格岩吉に、督乗丸船頭重吉が影響を与えていたのではないかと。
なぜなら、この二人は、時代も場所も職種も重複しています。
しかも、重吉は、岩吉・久吉・音吉の三人いわゆる三吉が、やがて直面する数々の困難をいかに乗り切ったか、公の場で語ってもいるのです。

② 異例な重吉の巡業

帰国後、重吉は、尾張を中心に三河から美濃にかけて、著名な神社仏閣の縁日などで漂流の体験談を語り、持ち帰った品々を展示し、さらには滞在した外国の語彙集「オロシアノ言」までも印刷し販売する巡業を始めています。
重吉は「異国にて貰い来たりし品々あまねく披露なし、一紙半銭の助力を得て石碑の費に当てんとす」と、巡業の目的を「一紙半銭」のわずかな寄進を募りながら、漂流中太平洋で亡くなった仲間や、帰国途上故国を見ないまま洋上で病に斃れた半兵衛の石碑=供養塔(注―2)の建立資金の工面と言っています。
実は、海外から帰国を果たした重吉が公衆の面前で公然と漂流中の出来事をネタに巡業していることは、この時代にあって、異例中の異例の待遇が許されたと言わねばなりません。
当時の江戸幕府は、運よく帰国を果たした漂流民に対して、外国の経験や体験を語ることを厳しく禁止していたからです。
幕府は、1635年(寛永12年)来、例の海外渡航禁止令(鎖国)の立場から「たとえ不幸にも遭難し、漂流したものであっても、いったん外国へ流れついたものは受け取らない」の原則を遵守していました。これは取りも直さずキリシタンの侵入を防ぐための政策です。
しかしながら実際は、中国から長崎のルートを通じて、あるいは他の湊での例外措置で、入国を果たした漂流民は多くを数えています。
結局、この時代、帰国が叶えられなかった漂流民は、モリソン号の一件で例の7人のみでした。
それでも帰国を果たした漂流民は、長崎や江戸へ送られて厳重な取り調べを受けます。特にキリシタンへのかかわりについての取り調べは厳しく長期間にわたりました。
そのためせっかく帰国を果たしても、故郷を目前にしてむなしく亡くなった漂流民も決して少ない人数ではありません。
そして実際、晴れて何年ぶりかに帰郷を果たしても、それでもキリシタンに染まっているのではないかとなお疑似陽性扱いで、その言動は厳しい監視下のもとにおかれ、ほぼ軟禁状態でした。
重吉自身も決して例外ではなく、尾張帰藩が許されたとき「江戸を立つ時に他所徘徊且ハ商物なとする事さしとめられ」と、身を慎み商売などしないよう訓示を受けています。【『船長日記』(注―3)による】
重吉とともに帰国を果たした豆州子浦(現静岡県南伊豆市子浦)出身の音吉(前掲)は、故郷に返されたのちは、公儀の言いつけを守りひっそりと暮らし、47才ごろその生涯を閉じています。
その他の漂流民の例でも、身柄を引き取ったそれぞれの藩において、改めての聞き取りが行われ、漂流譚として貴重な記録が残されるのですが、多くの場合、公儀をはばかって秘蔵本とされ、世に出る事はほとんどありませんでした。
このように重吉の帰国後の言動は、江戸で受けた訓示も逸脱した、他の帰還した漂流民とは際立った違いを見せているのです。思ってみればこれこそ実に徳川御三家筆頭の雄藩尾張藩なればこそできた荒業とも言えます。
当時、尾張藩を実質的に取り仕切っていたのは、御付家老の竹腰侯(注―4)でした。彼は、江戸での訓示などに頓着なく、重吉を城中に呼び、数奇な体験談を聞くとともに、各地での巡業の手筈や供養塔の世話まで後援しました。前出の『船長日記下之巻』には、こんな記述もみられます。
「竹腰君より、重吉が異国より持帰りたる、衣服器物ご覧じたきよし仰有りければ、名古屋へ携え行き、見せ参らせて、石碑の事をも申しければ、その料とて、こがね給り・・・・・(中略)・・・・・今までは、人々に見する事をも、はばかり居りたるを、それよりは、そこかしこより乞わるるままに、つぎつぎに持ちゆきて見せてハ奉加を乞い乞い・・・・・」
この中で重吉が言っている「石碑の事」とは、彼が悲願の督乗丸遭難者の供養塔建立のことであり、竹腰侯に胸の内を明かしています。これに対して竹腰侯は、奇特なこととして「その料とて、こがね給り」と応じています。そして、重吉は、この登城の日を境に堂々と巡業に出るようになったとしています。

潮騒令和塾『音吉伝講座」第4回資料より

巷では、重吉が長期間漂流に耐えて帰ってきたことや、神社仏閣で語り掛ける彼の姿が大変な評判になっていたに違いありません。ましてや尾張廻船の同業者の間では、知らないものがないくらいのビッグニュースであったと想像できます。
果たして、重吉が巡業で語っていたのは、漂流生活のあまりある辛苦の数々でした。極限状態に置かれた人間が直面する困難のひとつひとつを如何に乗り越えたか丁寧に語っていたのでしょう。
重吉は、この巡業を1818年(文政元年)ごろから始め、その後少なくとも十数年続けたようです。
ここに、岩吉と重吉とが巡り会う素地が出来ていました。

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