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学校授業『ありがとうの手紙を書きましょう』



□学校授業『ありがとうの手紙を書きましょう』

仕事で3年ほど関わっている
小学2年生の女の子が、
「学校でもらった。」と見せてきた手紙。
年度末だったその時期、これからクラス替え授業があるから、クラスの誰かにありがとうの手紙を書くという授業があったらしいのです。

彼女は
戸惑って、困った様子で、
「わたしには、ふつうのことしか書かれてない」
と私に報告してきました。

彼女が受け取った手紙には
「大変な時にいつも手伝ってくれてありがとう」と書いてありました。
彼女は3通、『ありがとうの手紙』をもらって帰ってきて、全部「やさしくしてくれてありがとう」とか書いてあります。

彼女は小学2年生で、まだ自分の気持ちをきちんと説明する言葉が追いついてきていないだけで、ちゃんと
『中身のないありがとう』
の言葉に、違和感をもてる子です。

当然ではないでしょうか。
彼女は大変な時に手伝った覚えもないし、
やさしくした覚えもない。
相手も、そんな覚えもないだろうに、
学校授業のタスクとして、大人がOKを出してくれそうな、それっぽいことを書いた手紙を
やりとりしただけ。


大人や学校の『形』しか見ていない指導に、
いかんせん、ため息が出てしまいます。

『ありがとうはいいことです』と教える。
親切にしてもらったら、
「ありがとう」って言いましょう。
と教えたいのだと思います。
ありがとうという言葉や感情が、
自然とうまれる前の目に見えない背景を、
見つめていません。

小学2年生の彼女は代わりに、
「◯◯ちゃんがフリーレン(アニメ)好きだから書いてあげた!そしたら、わたしが好きなマイメロディ(キャラクター)書いてくれた」 
と、イラストが描かれた紙を、嬉しそうに見せてくれました。

そこに、ありがとうの文字は書かれていませんが、それが、ありがとうじゃないかな?
と伝えしました。


小学3年生になった
彼女が書いたポスター
繊細でかつのびのびした
彼女に私も沢山
学ばせて頂いています。


□大人の世界のありがとう

物をもらった、なにか返さなくちゃ。
ありがとう。
売られたご恩は、返さなくちゃいけない。
ありがとうございます。
最近では、感謝をすれば、運が巡る。
というような記事や投稿の字面だけを見て、
途端に感謝を口にし出す。
なんていう人も見かけます。

形式ばった、義務感や損得にまみれた
『ありがとう。』
小学2年生の彼女と同じように、親切にしてもらったら、ありがとうと言いましょう。
先人にそう習ってきた現代の大人たち。
そんな『形だけのありがとう』を使う大人が
子どもに『ありがとうと言いましょう』と
教える。

なんだか変な構図だなあ。と思うのです。


赤ちゃんにいちいち言葉を教えなくても
勝手に言葉を覚えて話し出すように、
生き物は、それが生きる上で『必要なことだ』
と感じれば、自発的に興味をもって学びます。

その主体的に学びたいという要求もない状態で
「ありがとうと言いましょう」と授業に組み込む。
やっぱり、何度考えてもナンセンスだと思うのです。

□私だけの「ありがとう」の背景


私自身、中学時代はいじめにより転校。
授業中に「死ね」コールをされたり、
殴られるという身体的ないじめを
受けたこともありました。
当時の担任には、
「滝口は他の生徒よりも大人だね。だから、
いじめは気にせず、我慢するんだ。」と、
ひかえめに言って腐り散らかした助言を頂きました。

しかし、
大人とは我慢するものだ。
と教えてしまう状況にあったその担任のほうが、今思うと気の毒に思います。


転校した先の中学校は、
フリースクールやオルタナティブスクールでもなんでもない中学校でしたが、
とても恵まれた環境で、今振り返ると
教師同士の連携がとてもよく取れていた
学校だったように思います。

職員室に生徒が先生を慕って遊びにいく、
勉強を教えてもらいに行く、
保健室の先生とおしゃべりしに溜まり場とする、というような、
生徒が自主的に教師と関わることを
楽しんでいるような環境の学校に
幸いあたりました。
中学校時代は、腐った環境の学校と、
恵まれた環境の学校、実体験として
2つを比べることができたので、
とても貴重な学校生活だったと感じています。


高校時代では再び、
学校という組織になじめませんでした。
夕方までぷらぷらとしてから16:00頃登校、
好きだった部活にだけ出て、音楽室にある
ピアノを弾きに行き、単位ギリギリで卒業。

いつの時代も一匹オオカミで過ごしていました。


学校はつまらなかったけれど、
学校外には自分にとって楽しいものが沢山ある。ということには気づいていました。
音楽や料理、動物関係のこと等自分から学びに行き、バイトをしたり、多世代の人との交流も摩擦はあれどもこれもまた経験。
と思うと、学校には比べものにならないほど楽しいな。と感じていました。


社会人になり、なんとなく
『一般社会には馴染めない劣等感』
たるものを抱え、
「自分の心のうちを人に話しても分かるはずない。こんな大人になりたくないという人間ばかりだ。」と、冷めた視点をもち、大人や自身の未来に対する信頼感をあまり持てませんでした。

仕事は転々とし、
技術や仕事内容は面白いと感じても、
自分には合わない。
と感じる環境のところは辞めました。
30ほどの職種に就きましたが、どれも
長くは続きませんでした。
今よりも若い頃の私をはたから見ていた人は、親を含めて、
「なにをやっても長続きしない奴」
というレッテルを張りました。

しかし、なにひとつ無駄なことなど
ありませんでした。

今、私は料理、洗濯、掃除はもちろん、
身体のことは整体でまかないますし、
ヘアーカットの腕もなかなかなので、
自分や知人の髪もカットや染めもやります。
パンやお菓子が食べたければ、
自分で焼いてつくりますし、
服も必要あれば縫います。
刃物は自分で研ぎ、
万が一ガスが使えない環境になっても、
自ら火を起こすことが出来ます。


なにかを『仕事』にするために、
『お金稼ぎ』をするために、
身につけたことじゃなくても、
自分自身のことをまかなえる。
なにかを出来るスキルがある。
という生き方もまた、
豊かな人生のうちのひとつだと思うのです。

今は手に職があり、自分の人生は
自分で切り開いていく。と人間らしく
生きることが出来ています。


今、自分の人生を振り返って思います。
わたしにさまざまな経験をくれた方々、
ありがとう。

と。

これが、私だけの「ありがとう」の背景です。
もっと日常でも、「ありがとう」
と言ってはいますが、そこには必ず
伝えたいと思う背景があるはずです。


それを、1時間と決まった授業時間内で、
たかだか40人程のクラス内の誰かに、
ありがとうと言いましょう。
という課題にしてしまう。

たかが1コマの授業内容ですが、
こういう教育から、人間を狂わせる。
と、大人が気づかなければいけません。

□子どもという『ルーキー』


私は、子どもという存在は、
可能性を秘めた新人ルーキー
だと思って接しています。

良いものも、悪いものも、
吸収するチカラがあるルーキー。

その子どもに親や大人は期待して、
「よりよい環境下で育ててあげたい」
なんて気持ちが溢れることは当然のこと。


「親切なことをされたら、ありがとうと感謝できる子になって欲しい」
しかし、子どもよりまず、
自分自身はどうでしょうか?
と問いたいのです。

子どもという新人ルーキーが
自分の背中を見て、
なにかを吸収し影響を受けて育つ生き物だとしたら。
自分の暮らしや行いの中で、
私たちは自然と人やモノ、事柄に
心から「ありがとう」と言わずにはいられないような人生を歩んでいるでしょうか。


楽譜いっぱいに
動物などの絵も描く
彼女と私です。
ピアノという共通点があり
自主発表会を企画した時の写真です。

そして子どもたち。
学校なんていうせまく限られた機関のみならず、世界中を探せば、面白い楽しい人、モノ、事柄が沢山あります。
今みつからなくとも、
ジタバタし続ければ、一つは自分が
「やりたい」と思う、夢中になれることが
みつかるはずです。

人は、ただ年月を重ねるだけでは成長しません。
大人も、子どもも、体験しましょう。
自分だけの面白い人生を歩みましょう。

□言葉を媒体としないコミュニケーション「手当て」


触れる手当てという行動に、言葉は必要ありません。
身体の反応も、言葉ではごまかせません。

暑ければ勝手に汗がでて、
寒いと鳥肌がたち、顔が青くなる。
要らないものが腹に入れば腹をこわし、
緊張すれば脈が速くなります。
身体は常に自然体であろうとします。


それを無理に捻じ曲がった社会に
適応しようとして、身体の要求と
異なることをし続けると、
言いたくないことを言わされる。
泣きたい時に、涙を見せるなんてみっともない。と我慢する。
それが積み重なり、身心をこわす。
当たり前のことが起きるのです。


整体教室では、
様々な方と稽古をすることになり、
触れるその一手が、十人十色で違うことに
気づきます。

人間の感覚は、触覚に限らず、
見慣れたもの、聞き慣れたもの、
普段日常的にそこにあるものほど無批判に
受け入れやすくなります。
本来の感覚を取り戻すためには、
悪しき習慣や環境から離れないと、
自分の状態がわかりません。


乱雑な扱いを受け続け常態化すれば、
それが普通となっていく。
普段から丁寧にやさしく扱われていれば、
乱雑な扱いをされた時に違和感を
感じることができます。

こうして自分や人の身体の観察を繰り返し、
手当てやセルフケアで
身体が整っていくにつれて
自分の身体の反応をものさしとして、
よりよいものを選択していけるようになる。
これが整体の醍醐味です。


整ってくると、
言いたくもないありがとう。
は言いません。

身心元気な人が増えて、
自然と感謝が巡る世になる。
身体が整った人が増えれば、
学校教育でわざわざ
『ありがとうの手紙を書こう。』
なんて授業がなくなると思います。

遠回りなようで、これが近道。
今日も一日、すこやかに過ごしましょう。

#野口整体
#ありがとう
#感謝とからだと
#言いたいことを言える世に




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