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小学生の時、人が亡くなった時の記憶と高校の友達の記憶。

私が身近な人の死に直面したのは小学校5年くらいで父方のおじいちゃんだった。頻繁に会うこともなく、ただお年玉をくれる人だった。住んでいるアパートが川の前で、車に乗っていける距離だった。亡くなったと聞いた時も喪失感とか感じず、会えなくなるのか程度だった。公益社でのお葬式の後、トイレの個室で静かに泣いたのをよく覚えている。さみしさより図書カードをもらえないんだ、もう渡してくれないんだという気持ちで涙を出そうとして上手くいった。余韻もなくすぐその時間は終わり、ホールに戻っていった。
母方のおばあちゃんが亡くなった時、小学校4年で水泳教室に通う水曜日でうちに運ばれてくるとかの準備で休めるから喜んでいた。やった〜と言って飛び跳ねた。おばあちゃんはみちこだったらみぃちゃんと呼ぶくらい。親密でと書きたいがママがそう呼ぶから呼んでいた。でもよく病室に行ってお手紙を書いては返事をもらっていたようだ、しっかりとした記憶がないがたくさんの手紙が宝箱にあった。リウマチで力を込められず読みにくい時もあった。かわいがってくれて好きだった。そんなおばあちゃんが亡くなった時めちゃくちゃな喪失感は感じなかった。

それ以降身近な人が亡くなったことはないから亡くなるとしたら、自殺したらどう思うかと考える。熊野寮の女子大生の本やプロおごのツイートを見てそんなことを考えた。

高校生の受験が迫る時、親友と歩きながら親が亡くなったらどう思うかと話していた。私はそんなん無理や考えられへんみたいなことを言ったがその子は受験をやってそれもなんとか乗り越えていくしかないと言われて強いなと思った。今横に歩いている女子高生は私の一歩先を行っていると思った。私よりすごい人だと少し思う。その子は母親しかいないがそんな考えを持っていた。確か死別やった気がする。あれ言ってなかったっけと言われ教えてもらった。その子は挑戦の気持ちで京大が第一希望だった。一緒に自習室の前の木の机で勉強したりした、世界史をアプリを使って覚えていた。同級生で同じ駿台に行く友達とそれをしたり、ベローチェに行って勉強していたらしい。京大はダメやったけど有名私大に受かり、楽しそうで忙しそうだった。うらやましくもあり当然な結果だと思った。私はうつになっていて同じ土俵には立てなかった。4人組の女の子グループができ、インスタでキラキラしたのをあげていると部活仲間が言っていた。部活が同じその子に会ったのも卒業して一回だけ、大人数はストレスで家に帰ってから頭痛と重だるさでしんどくなり、LINEで誘われても行かない。同窓会も行かず、しんどさと大学名を聞かれて、うつで行ってないなんて言った時のあっ…に耐えられない気がしたのとママに行かない方がいいと言われて止められた。心配症でいつも私のためを思って色々口を出してくる。夜は危ないから7時以降出てはダメ、雨が降ってる日は散歩は行かない、病院や散歩に行く日はもう終わりましたか?などLINEが1時間後くらいすぐ来て返さないとなんで見ないの?と怒られる、LINEの後は3回くらい着信。ママについてはまた書きたい。母がしんどいという漫画とか、子が親を殺す時みたいな新書(名前を忘れた)を借りてきては毎回アルコールで本を拭くときにどんな反応か内心ヒヤヒヤしている。ママしんどいのか〜とか言うとやばっと思い、そんな〜なんて口から出ている。しんどいに決まっているが絶対に言えない。高校生の時、電話でパパと言い争いになって泣いていた。だからそんなことを言えば深く傷ついて1人で泣くのではと、よぎる。本気で一人暮らしを考えた時もあったが、うつでアルバイト未経験で仕事探しはキツく、生活費が払えないのでまだまだ2人で家にいる。父は単身赴任、コロナ前は3ヶ月に一度ペースで帰ってきていたが、なってから一年に一度。私としては2人慣れきっていて、パパがいるとしんどくなっしまう。なのであまり帰って来てほしくない。体調が良い時でもしんどくなったので気疲れと分かった。ママはパパと普通に会話していたが、最近ママもしんどいらしいと知った。私と全く同じ理由で気疲れらしい。でもパパ帰って来ないでねなんて言えない。私のことが好きで電話もしてくる。テレビっ子で話が合う。ママはパパの仕事やバラエティの話には興味がないらしい。そんなにはっきり言うのかと思ったけど本人には言ってないので大丈夫。

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