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即興小説。「海辺」「蕎麦屋」

 海辺で波を見ていた。波を一つの線として見ていた。糸のようにうねる日は穏やかな気分だった。竜のうろこが走る日は腰が浮いてしまった。破れたシーツがはしゃぐ日は風に語りかけた。
 波乗りをしようと最初に思いついた人の気持ちがわたしにはわかった。波は海上の陸地、野球場や公園のようなもので、風にふかれ、月に導かれて胎動を起こす。サーファーとは妊婦の腹部に手を伸ばす父親のようなものだろう。自然という純然たる遊び場を目の前に、誰もが駆け出していく。
 
 その日の波は不機嫌に見えた。ただ細かい湾曲を描く機械のようで不気味だった。わたしは仕事もなく、用事もなく、ただ波を見ている人だった。どうすることもできずに眺めるしかなかった。わたしが波打ち際で地団太を踏もうが大声で叫ぼうが、この不機嫌な波を変えることはできない。
 風も吹かない。月も見えない。船は見あたらず、地平線さえ臆病で、空から波を区切るのをためらっていた。

 わたしは帰ることにした。特に行く場所はなかったが、腹が減ったので蕎麦屋によった。ざるに盛られた蕎麦を箸で一本つまみ、つゆに浸す。さらに一本つまみ、浸す。

 自然のなかに直線は存在しない。直線は人工的にしか造れないという。とはいえ、曲線も裁断し続ければひとつの点となり、点と点が重なれば線になる。
 椀に浸した蕎麦を口に頬張り、嚙み砕く。口の中で曲線が直線になるチャンスが生まれる。あの不機嫌な波も噛み砕いてしまえたらどうだろうか。波が一直線であれば海を容易く乗り越えていけそうな気がする。海の向こうに広がる大地を見に行けるだろう。

 蕎麦を平らげたらまた、海辺へ向かおう。わたしはそう考えながら、口中の麺を砕いた。
 
 

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