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断食明けの水、という配慮。

マレーシア人のジャンナさんとpodcast番組「オトとジャンナのMトーク」をやっている。

先週からラマダン(断食月)がスタートしたので、今回は、断食中のジャンナさんに「周りの人にやって欲しいこと、やらないで欲しいこと」を聞いてみた。

今まで気になっていたことや体験から思ったこと。そんなあれこれを共有しながら話してみて、なるほどねぇと合点ポイントがいくつもあった。

なかでも印象に残ったのが、断食明けの水という配慮(ジャンナさんはrespectと表現)。これについて、ちょっと考えてみたい。

ラマダンとは、日の出から日没まで、飲食を行わないイスラム教徒の行である。日没の時間が断食明けとなり、このタイミングで、のどの渇きを癒すために水を飲んだり、空腹をやわらげるためにデーツなどの軽いものを食べたりする。

以前、ファリダ先生(マレーシア人の東京外国語大学特任准教授)に教わったのは、日没後すぐにとる飲食は、のどの渇きや空腹といった身体のために加えて、信仰上そうしたほうがいい、と考えられている、と。

参考記事:マレーシア文化通信『WAU』より

「もし、断食明けの時間に会議が重なってたら、イスラム教徒が軽い飲食のための休憩をすることを許してください」とファリダ先生はおっしゃった。


そういえば。思い出したことがある。マレーシアでライターとして働いていた約15年前、ラマダン時期に取材先に伺ったときのことだ。

あの日、とても暑くて、のどがカラッカラだった。そのこと察して、取材相手がジュースを出してくれた。その方はイスラム教徒で断食中。目の前で飲むのは申し訳なかったが、カラッカラののどを潤してくれたジュースはとてもおいしくて、そしてありがたかった。

このふたつのこと。イスラム教徒のために会議をいったん休憩にする、ということ。イスラム教徒でない人にジュースを出す、ということ。立場は反対だけど、どちらも相手への配慮だ。

配慮は、この社会を心地いいものにするために、とても大事だと感じている。同時に、配慮は簡単にできることじゃないな、とも感じる。なんというか、みんなにやさしくしましょうね、ぐらいの漠然とした標語だけあってもけっして守れない。なぜなら、配慮とは、誤解を恐れずに言い換えれば、誰かのために我慢をすることだから。やる、やるべきだ、としっかりマインドをセットし直す必要があると思う。

たとえば、こんなとき。断食明けの時間に会議が進行中で、あと30分で会議が終わりそうな場面を想定してみる。あとちょっとなのに。イスラム教徒のために休憩するのは効率が悪いよね、と感じる人はいるだろう。日本ではイスラム教徒は圧倒的に少数派なので、その人たちのためにみんなの行動を変えるのはフェアじゃないと考える人もいるかもしれない。

そう感じるのはわかる。わたしも昔はそうだったから。でも今は、相手への配慮が、たとえちょっとした我慢をともなったとしても、そうすることで、わたし自身にとっても心地よい社会になることが実感できている。

なぜなら、わたしたちは誰もが、どこかでかならず、少数派の配慮を必要する側になるから。

たとえば子育て中のお母さん。飲み会で早く帰りたい人。仕事中に突然お腹が痛くなることだってあるだろう。

そんなときに、誰かが配慮してくれたら、めちゃめちゃ助かるのだ。困りごとは、タイミングがズレて起こるから、そのときはフェアじゃない気がするかもしれないけど、人生の時間軸でみたら、すべての人にフェアに起こる。だから、配慮し合える社会のほうが、わたしも安心。そういうことだ。


あともうひとつ。今回のpodcast収録で思ったのは、困ったときは言えばいい、というのもアカンな、ということ。たいていの人は、自分も含めて、困っていてもけっこう我慢しちゃうから。そのことも頭に入れておきたい。

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コタバルの屋台で飲んだキャロットジュース。炎天下を30分近く歩いたあとだったので、めちゃうまかったー!


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