いろいろあっていい、が難しいわけ。
誰も否定しないこと。
これが2011年3月11日の震災から、わたしが学んだこと。あれからずっと心に誓っていることだ。
あのとき、テレビではショッキングなニュースが毎日流れ、日本中の人が動揺し、不安になった。わたし自身も自分が何をすべきかわからなくなり、その答えを知りたくて、周りの友人や識者の行動や言動、SNSで流れてくる情報に過敏になった。
会社を休んで実家に身を寄せた人がいた。海外移住を選んだ人がいた。外出をひかえる人がいた。食材選びに気をつかう人がいた。空いている今がチャンスと人気のレストランで外食を楽しむ人がいた。
対応や反応は、みんなそれぞれだった。
考えてみれば、幼い子供がいたり親が高齢だったり。仕事の内容や会社での立場。育ってきた環境に、周りの人から影響など。そういうさまざまなものによって、人は皆、大事なものがそれぞれ違う。
それは同じ家族であっても、近しい友人同士であっても、きっとみんな違う。だから、こうこうすべき、とか、これが正解、というものは1つじゃない。正解は人によって違うし、そのすべてが正解なんだ。あの震災を経験して、そのことを心の底から思った。
誰のことも否定しない。
このことを自分のモットーにして9年生きてきた。すこしずつだけど、この思いは体にしみこんできた気がする。
でも9年経っても、まだどうしても、難しいことがある。
それは “わたしを否定する人を否定しない”ということ。
じぶんに関係のないところで、いろんな人がいることを認めるのは簡単だ。それはもはや、みんなが知っている当たり前の世界だし、いろいろあってそれでいい。
でも、ちゃんと突き詰めて考えていくと、言葉でいうほど簡単じゃないことに気づく。
誰も否定しないということは、わたしを否定する人も否定しないということ。わたしを嫌いな人がいてもいいし、わたしの生き方を否定されてもいい、ということ。
頭ではわかる。別にそれでいいのだ。人それぞれだから。
でも、心が反応してしまう。まだどうしてもコントロールできない。わたし自身にだけでなく、わたしが好きな人や尊敬する人や大事なことを否定する人にも、反射的に否定的になってしまう。
これはいかーん。まだ精進が足りーん。
これはなにも、事なかれ主義でいこう、ということじゃない。意見が対立するのなら、話しあって、ときに歩み寄って、そのときの最善の方法を探る。それを、相手を否定することから始めるのではなく、違って当たり前という前提から始めること。それがわたしの理想だ。
大事なことは、そんなに簡単なことじゃないんだよね。
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