忘れられない雨の日
2016年4月14日21時26分
震度7の地震が熊本を襲った。
その頃、私は恵比寿の焼肉屋で付き合ってもいないのにずるずる1年一緒に過ごした男とデートをしていた。
21時に待ち合わせだったにも関わらず、彼が遅刻をしてやっと乾杯したその直後に関東でも小さな地震が起きた。
「恐いねー」と言いながら、飲んで食べて、夜は地震の事など忘れて眠りに着いた。
翌朝、ニュースを見て呆然とした。
熊本城は崩れ、家が全壊している。
その上雨まで降っている。
呑気に焼き肉を食べていた自分が恥ずかしくなった。
翌日の深夜、日付けが変わった頃にまた震度7の地震が熊本を襲った。
ニュースを見るたびに心が痛む。
心が痛むのに、東京や世界は何事も無かった様に進んで行く。
自分の生活もいつも通りの忙しい日々が過ぎて行く。
熊本や大分に身内がいる訳でもなく、近しい人が被災した訳ではない。
それなのに、なぜこんなに悲しくなるのかが分からなかった。
地震直後から平日にも関わらず熊本便は混雑していた。
熊本からは被災して東京の親戚宅へ向かう人、熊本へはリュックを背負い長靴を履いた重装備の人達が多かった。
6月のとある日、熊本へ向かう長靴のお客様達に「何をされに行くのですか?」と聞いてみた。
「熊本地震の被災地で全壊した瓦礫の掻き出しに行くんです。」
別の人はこう言った。
「炊き出しをするボランティアに参加するんです。」
話を聞くと、本業をお休みし、飛行機代や宿泊費を実費で払って参加すると言う。
心から尊敬すると共に、その原動力は何なのか知りたくなった。
「ご出身が熊本か、もしくはご家族やお知り合いがいるのですか?」と質問をすると
「私自身は生まれも育ちも関東なので、特にゆかりはないんですけど、いてもたってもいられなくなってしまって。」
「熊本ではないですが九州出身で、やっぱり同じ九州の人達が困っていたら行かなくちゃって気がして。」
と応えてくれた。
この方々との会話は私にとって目から鱗の様な会話だった。
被災地へのボランティアは、熊本出身じゃなくても知り合いが被災していなくても参加して良いのだ。
ゆかりがなくても、いてもたってもいられないとの理由だけで出来るものなんだと、そんな当たり前の事を気付かせて貰えた瞬間だった。
帰宅してすぐ、私は自社の社員向けホームページを隅々まで調べた。
数日前に「熊本地震ボランティア募集」の文字を見掛けた気がしたのだ。
航空会社は、冬の雪の日に滑走路に積もった雪を除雪する為にお湯を撒く。
その除雪車は水をお湯に沸かす機能を備えている。
冬以外は使わないその除雪車を利用して、被災地で「お風呂」の提供をしているのだ。
調べて応募して参加するまではあっという間だった。
7月の初めに熊本へ行く事が決定した。
まだ梅雨の明けない蒸し暑い日に、ついに熊本空港へ降り立った。
震災直後は窓ガラスが割れ、照明が落下したりしたと聞いていたが、空港はすっかり綺麗に元通りになっていた。
その日から合流するメンバーは私の他に2人いた。
運営メンバーを含め20名程で活動し、毎日3名程メンバーが入れ替えとなる。
活動期間は4日間。
運営メンバーの方々は4月から定期的に熊本にいるらしい。
真っ黒に日焼けしているので、誰が運営メンバーなのかすぐに分かる。
活動場所は二か所。
一か所は、一番被害が大きかった益城町にある施設だ。
この施設には銭湯の様なお風呂があり、震災前は「憩いの場」と呼ばれる広場で地元のお年寄りが集まり雑談する場となっていた。
浄水場まで給水車を走らせ、汲んだ水を今度は除雪車に移し、除雪車からホースを伸ばし銭湯の大きな湯船にお湯を貯める作業をする。
重機を扱える男性が主に車を運転し、女性チームは室内の受付をしたり簡単な清掃を行う。
二ヶ所目は益城町の隣の、大津町の避難所となっている体育館だ。
体育館横の駐車場スペースにプレハブ小屋の簡単なお風呂が設置してある。
大人6人くらいが入れそうな大きな家族風呂がひとつと、1〜2人用の個室が四つ。
個室の中には簡易的な浴槽があるので、給水車で水を汲み、除雪車でお湯を沸かし、ホースで浴槽にお湯を貯めると言った作業をする。
重機の扱いやホースを使う力仕事は男性が担当し、女性は主に予約の受付と使用後の掃除と、お風呂上がりの涼み場で冷たい麦茶を出してお話をするのが仕事だ。
午前中に活動拠点となる益城の施設に集合し、ポロシャツに着替え既存メンバーに挨拶をする。
すでに担当が振り分けられており、私は後者の大津の体育館担当だった。
大津へ向かう前にランチにしようと、大津チームの5人で熊本市内の定食屋へ向かう。
運営メンバーである男性の堤さん(仮名)が言う。
「おとうふさん、大津はねぇ…大変ですよ。しっかりご飯食べてね。」
私より5つくらい歳下と思われる可愛らしい女の子、酒井さん(仮名)も言う。
「大津ははずれですね〜。益城は室内だしエアコンも効いてるから快適ですけど、大津は暑いし雨降るし汚くなります。」
とんでもない場所にアサインされてしまったのでは?と青ざめていると、可愛らしい酒井さんがフォローしてくれた。
「でも、大津の人は皆んな良い人だし癒されますよ。」
行きのコンビニで、入浴剤のバブと麦茶を買う。
堤さんに「バブの種類が選べたり、麦茶を出したり、至れり尽せりですね。」と話すと、
「本当は上から経費で賄えないって言われてるんだけどね。」とはにかみながら小さな声で言った。
恐らく、この人はポケットマネーから購入しているのだろう。
大津の体育館に着くと、想像したよりもひと気が無いと感じた。
すぐ近くに仮設住宅が完成し、徐々に体育館に避難している人も移動しているのだと言う。
被災して3ヶ月も体育館で生活する事がどれだけ大変だろうかと、想像したらまた心が痛くなった。
私は四日間しかいれないけれど、全力で出来る事をやろうと思った。
受付開始時間になると、ちらほらとお客さんがやって来た。
今日が二日目の酒井さんは、既にお客さん達と馴染んでいた。
てきぱきと仕事をこなし、私にも色々と教えてくれる。
酒井さんは明日が最後の活動日となるので私が引き継ぎを受け、私も明後日来る人にその仕事を引き継いで行く。
そうして4月からのバトンを引き継ぐのだ。
酒井さんによると、何人か常連さんがいて好みの個室や好みの湯加減があると言う。
引き継ぎノートなる物があり、事細かに書かれていた。
場所は違えど個人個人に適したサービスを提供するのは、機内と変わらないなと感じて少し嬉しくなった。
前任の方々の細やかな気配りや思いやりを感じた。
また、デジタル化が進んだ中で、引き継ぎノートと人を媒体としてここまで完璧に引き継ぎを出来ているのも素晴らしいと感じた。
そして大津には名物おじさんがいる。
くまもんのエプロンをして、避難所にいる人や私達にコーヒーを振る舞ってくれるSさん。
顔は髭が生えた強面なのだけど、お話すると訛りが可愛らしくてとてもキュートな方だ。
Sさんはあまりお風呂には入りに来ないけれど、しょっちゅう私達のプレハブ小屋に来てはコーヒーを振る舞ってくれる。
そうして、お風呂を提供しながら人間模様を観察しているうちに私の初日が無事に終わった。
お風呂を提供している私達が、一番汗まみれ泥まみれである。
片付けを終えてホテルに戻ると、快適な室内で仕事を終えた益城チームが私達を待っていた。
汗まみれの大津チームは、シャワーを浴びる暇もなく夕食へと繰り出した。
酒井さんが言っていた「大津ははずれ」の意味が分かった。
けれど、大津の人達の顔を思い浮かべながら、何となく私は大津で良かったなぁとしみじみ感じてその日は眠りに着いた。
活動二日目。
AさんBさん姉妹がいつもの様に16時に来て、17時には小学生集団がお風呂に入りに来る。
タオルを忘れたDさんが取りに来て、今日もCさんはお水を飲みながら涼んでいた。
お風呂に入りに来るのは常連さんだけではない。
70歳くらいの女性Eさんが「お風呂、入ってみようかな。」とやって来たのだ。
「堤さん!お湯ー!お湯入れてください!ご新規さんですよ!」
「おっ!じゃあお湯の温度は普通が良いかな?」
なぜかご新規さんが来たと、いつもより張り切るメンバー達。
そして堤さんは足の感覚でお湯の温度を当てる能力を身に付けていた。
「うん!40度くらいかな。」
普段は本社で立派なスーツを着て会議をしているであろう堤さんは、今やタオルを頭に巻いたお風呂屋さんである。
「おすすめのバブはラベンダーですよ。お風呂出たら冷たい麦茶お出しするので、ゆっくり入ってくださいね。」
とご新規Eさんを案内した。
Eさんがお風呂をでた頃には忙しさのピークも去り、お風呂を終えたお客さんと酒井さんと一緒に麦茶を飲みながら談笑した。
重機の仕事を終えた若い男性のリーダー的存在の川田さん(仮名)と私の父くらいの年齢の黒木さん(仮名)も加わり、暫し休憩タイムとなった。
いつの間にか自称コーヒー屋のSさんが差し入れにコーヒーを持って来てくれて、お風呂あがりの子供達も「お姉ちゃん、遊んで」と寄って来た。
Eさんがぼそりと「勇気を出して来てみて良かった。」と言ってくれて、私達は皆んな泣きそうになった。
AさんBさん姉妹も、「私達もいつも広いお風呂で助かっている。」と言ってくれて更に泣きそうになり、耐えられなくなった男性陣は無言でまた仕事に戻った。
酒井さんは泣いていた。
私は貰い泣きしそうだったので引き継ぎノートを読むふりをして誤魔化した。
お風呂も大事だが、この雑談タイムこそが何よりも大切な時間に感じた。
Eさんと話が盛り上がり、夕飯の時間になったので手を引いて体育館まで見送る事となった。
その時初めて体育館の近くに来てちらりと内部を覗いたが、入り口まで来た辺りで、ここから先は入ってはいけない様な気がして立ち止まった。
Eさんに「今日はありがとう。また明日も気分が良ければ遊びに来てくださいね。」と伝えて見送った。
体育館はしーんとしていて、空気が重かった。
これだけ沢山の人々がいながら、外で見掛けるのは子供達を除くと数人のお年寄りだった。
殆どの人達はこの体育館から一歩も出ずに生活しているのだ。
その話を帰り道にメンバーに話すと、堤さんが言った。
「あの場所は、外からしか見た事はないけど、聖域みたいな場所で僕達が入るのはちょっと違う気がするよね。」
そう。聖域だ。
いくらお風呂と言う生活の一部に関わっていても、私達は部外者であって被災者とは一線引いた関係なのだ。
ボランティアとは、「やってあげた」みたいな恩着せがましい気持ちでやり、自己満足で終わってしまうのではないかと少し恐くなった。
この日は酒井さんと川田さんを含む3名の送別会だった。
毎日新しい3人が入り、毎日3人の送別会となる不思議なルーティーン。
可愛らしい酒井さんと、リーダー的存在だった川田さんがいなくなるのは少し不安だった。
三日目。
山の上に位置する益城と大津は、私が到着した日から通り雨や集中豪雨が時折来ていたが、この日は益城に大雨警報が出ており銭湯の施設も臨時休業となった。
代わりに大津での活動を共同でやる事になった。
とは言っても、大津でも大雨が降っておりまともに活動出来るのかと言う状況だった。
体育館へ向かう道すがら、堤さんが意地悪そうに言った。
「ぬるま湯に浸かってる益城チーム、ちゃんと働けるかな〜。」
「無理じゃないですか〜。」
大津チームがニヤニヤしながら俄然やる気で現地入りした。
謎のボランティアマウントである。
その日は絶え間なく雨が降り、お風呂に来てくれるお客さんもまばらだった。
傘をささずにお湯をはる大津チームを、暇な益城チームは体育館の屋根の下で眺めていた。
益城チームにいた長身の男性三輪さん(仮名)が「そや!」と思い付き、傘をさしてご婦人方をエスコートし始めた。
お風呂に行きたいけど雨で濡れてしまうのを理由に躊躇しているお客さんが次々に訪れて来てくれた。
「三輪さんナイスアイデアですね!」と声を掛けると、
「せやろ!どんどん行くで〜」
と調子に乗って沢山お客さんを連れて来てくれた。
それに倣って、益城チームの暇を弄んでいた男性陣が傘でのエスコートサービスをしてくれたおかげで、雨なのに沢山のお客さんが来てくれた。
テントを貼った湯上がりスペースで常連さんと談笑していると、一台のマイクロバスが体育館に止まった。
この日は本社からの社員さんと制服を着たパイロット、CAが体育館を訪れ「航空教室」のボランティアが開催される日だった。
Aさんがそれを見て
「綺麗な服来たスチュワーデスさんが一杯来たねぇ。」と言った。
BさんやSさんも「そうだねぇ。」と相槌を打つ。
「ちょっとAさん、私も今は汚い格好してるけど普段はスチュワーデスやってるんですよ!」
と言うと、そこにいたお年寄り全員が
「え〜!そうだったの?」と大笑いした。
私がCAである事を最後まで信じない子供達は、航空教室へ参加する為に体育館へ戻った。
「皆さん、航空教室、見に行かなくて良いんですか?」
と聞くと、Sさんが
「ここにスチュワーデスさんいるから行かんでもよかよ。」と微笑みながら言ってくれた。
とても心温まる一日だった。
その日は運営メンバーの堤さんが一時帰京となる日だったので、4名の送別会だった。
航空教室のボランティアで来ているCAやパイロットと懇親会をすると言う話が出たが、一緒に汗水流して働いたメンバーとこじんまり飲みたいと言う堤さんの希望を汲んで、懇親会は断った。
CAと飲む機会を逃したとふざけて言う三輪さん意外は、皆んな「こっちにもCAのおとうふさんがいるから懇親会は行かなくても良かったよね。」と、気を遣って言ってくれた。
大雨の中でキラキラした同僚がマイクロバスを降りる姿を、びしょ濡れの私が寂しそうに眺めていたのに皆んな気付いていたのだ。
このボランティアに参加する人達は心底優しい。
世界中がこの人達になれば良いのにと思った。
ついに最終日。
この日のスケジュールは、午前中に益城町の制限エリアを歩いて見学させて貰い、その後飛行機で帰る流れだった。
運営メンバーさんを筆頭に来た時と同じメンバー3人で益城町を歩いて回る。
全壊している家も多く見られた。
玄関のドアに色分けされた紙が貼ってあった。
赤色は崩壊の恐れがあるので立ち入り禁止、黄色は崩壊の可能性があるので立ち入り注意、緑色は注意して入れ、みたいな内容だった。
避難所や仮設住宅に入る人達は殆ど荷物を持たないまま家を出て一度も帰れてないと言う。
二階建て家屋の一階がぺちゃんこになって、平屋の様になってる家。
ガレージの車だけが唯一の支えになって、ぎりぎりの状態で崩壊を免れてる家。
地割れして地面が隆起して通行止めになっている道路。
震災から3ヶ月たった今も、この町だけは時が止まってしまっている様だった。
その光景を見ていたら、自然と体育館にいるお年寄り達の顔が浮かんだ。
「あの人達もこの家に住んでいたかもしれない」と想像すると、居ても立っても居られなくなり、気付いたら新しい運営メンバーの杉山さん(仮名)に「私の飛行機、最終便に変えるんで午後も大津に行っても良いですか?」と伝えていた。
大津に着くと、また、しとしとと雨が降り始めた。
この四日間雨が降らない日はなかった。
半日滞在を伸ばしただけで、何か出来る事があるのかと言うと、そうでもないのだが、仲良くしてくれた大津の方々にちゃんとお別れが言えてないのが心残りだった。
いつも来てくれたAさんBさん姉妹、CさんDさんEさんにもお別れを告げた。
「寂しくなるね」「ありがとう」と短いけれども心のこもった言葉を交わした。
Sさんにもお別れを告げ、最後のコーヒーを頂いた。
ひと通り常連さんをお迎えし、17時の小学生達と遊び、そろそろ空港に向かわないと行けない時間となった。
後任の人に引き継ぎノートを渡し、荷物をまとめて出発しようとした時、遠くから「おとうふさーん」と呼び止める声が聞こえた。
AさんBさん姉妹とEさんとコーヒー屋のSさんだった。
「そろそろ東京に帰る時間なんですよ。」
と伝えると、
「知ってるよ〜。さっき今日が最後って聞いて、皆んなで急いでプレゼント用意したんだよ。」
と言いながら、ピンクの包みとお手紙を渡してくれた。
それを見た瞬間、皆んなを抱きしめながら私は嬉しさと驚きで涙が溢れてしまった。
この短い時間でどうやって?お店も殆ど閉まっているのにどこで?ただでさえ生活が大変なのにプレゼントなんて…と言った沢山の思いが混ざって、込み上げて、この四日間我慢していた涙が溢れる様に出て来た。
「私、たった四日で大した事も出来なくて、逆に皆さんから教えて貰う事ばかりで…皆さんは大変な思いをしてるのにいつも気丈に振る舞っていて…このまま東京に帰って普段の生活に戻るのがいたたまれなくて。」
Aさん「そんな事ないよ。おとうふさんがいつも優しくしてくれて私達は笑顔になれたよ。」
Bさん「私達はここで頑張って生きて行くから、おとうふさんも綺麗な制服着てスチュワーデスさん頑張って。」
Eさん「あの日お風呂に入って、外に出るきっかけが出来てちょっとだけ楽しみが出来たよ。ありがとね。」
Sさん「またコーヒー飲みにけれ!」
皆んながそれぞれ優しい言葉を掛けてくれた。
体育館の中で静かに暮らしている大多数の被災者の方々を見た時、自分はなんて無力なんだろうと感じた。
何百人といる中の数人と関わっただけで良い事をした気分になり、自己満足で終わるのではないかと思った。
憤りと虚しさで帰路に着く私を、彼らは引き留めて声を掛けてくれた。
小さな事でも助けになる。
やり遂げた結果ではなく、何かしてあげたい気持ちが大事なのだと教えてくれた。
それから雨は更に酷くなり、東京から到着する飛行機は視界不良で熊本空港に着陸出来ずにいた。
1時間遅れてやっとの事で滑走路に飛行機が着陸した時、空港のロビーでは歓声と拍手が起きた。
とても誇らしい気分になった。
予定より1時間遅れて熊本を後にする。
離陸してすぐ、窓の外を覗くと、眼下には熊本の「今」が広がっていた。
涙が滲んではっきりと見えない景色を必死で目に焼き付けた。
私はこの光景を一生忘れない。
あそこに皆んなが力強く生きている事を忘れない。
死にたくなったらそれを思い出す様にした。
誰かに何かしてあげたいと思ったら、その気持ちを大切にする様になった。
そんな忘れられないエピソード。
あとがき
こちらはおぬきのりこさんから頂いたバトン企画です。
私は正直、バトンも企画も好みません。
書きたいと思うものしか書きたくないし、読んでスキと思ったものしかスキしません。
急にバトンが回って来たら、無理矢理書くしかないじゃないですか。
なんかmixiみたいだし、学生みたいで若いな…とも常々感じてました。
だから最初、このバトンが回って来た時、主催者さんにお返しするか、若しくは自分が書いてアンカー宣言しちゃおうかなとも、実は思いました。
(チェーンナーさん、のりこさん、他の方々すみません)
けれど、バトン記事を遡ってみたら、私に回って来るまでに様々な方の手から繋がれたこのバトンを絶やしてはいけないなと感じました。
そしてすぐに熊本での活動をバトンに似たようなものを感じて、6年前のエピソードを書き始めました。
書きながら泣いてしまったり、写真を見て思い出にひたってしまったり、時間を要してしまいすみません。
この大切なバトンを、走るのが苦手なこの方にお渡ししたいと思います。
〇〇について思うことさん。
私自身がバトンでまず初めに心配した事は、「誰に回す?」というプレッシャー。
まるで小さい頃に「不幸の手紙」を誰に送るべきか悩んだ様な…(何度も謝ります、「不幸の手紙」扱いしてごめんなさいチェーンナーさん。結果として良い企画に参加させて頂き感謝してます。)
なので事前に許可を得た上で書き始めていた所、何やらすでに完成間近との報告が…
と言う訳で、安心してバトンをお渡しします。
以下コピペ文です。
↓
★企画について~バトンのつなぎ方~★
※期間は 9月30日(金)まで です
1.記事を書いてほしいとnoterさんから指名=バトンが届きます。
2.バトンが回ってきたら「心に残るあのエピソードをあなたへ」の記事を書いてください。
3.noteを書いたら、次にバトンを渡すnoterさんを指名してください。指名したことがわかるように、指名するnoterさんの一番最新のnoteをシェアしてください。
※ #心に残るあのエピソードをあなたへ というハッシュタグもお忘れなく
※指名するnoterさんは、最大2名まで。
あまり多いとご負担になりますので、1名か2名でご指名ください。
4.チェンナーさんの下記の記事を埋め込んでください。マガジンに追加してくださいます。
★バトンリレーに参加しないときは・・・
1.バトンをもらったけど、noteを書きたくない、という方は、バトンをチェーンナーさんにお返しください。
方法①「チェーンナーさんに返します」というnoteを書いて、上記の記事を埋め込んでください。チェーンナーさんが「心に残るあのエピソードをあなたへ」を書いてくださいます。
方法②上記のチェーンナーさんの記事のコメントで「バトンを返します」とお書きください。