しょうもない話を真剣にしようぜ/ものすごい愛【連載エッセイ「わたしとラジオと」】
インフルエンサーや作家、漫画家などさまざまなジャンルで活躍するクリエイターに、ラジオの思い出や印象的なエピソードをしたためてもらうこの企画。今回は北海道在住のエッセイスト ものすごい愛さんにラジオとの出会いをうかがいました。「ラジオを聴くようになったのは遅咲きで27歳から」その裏にどんなきっかけがあったのでしょうか?
昔から、2つのことを同時並行でできない。
友達とおしゃべりをしながらLINEの返信はできないし、音楽を聴きながら原稿を書けないし、ハーモニカを吹きながらギターを弾けない。
最後のやつは試してみたことすらないけれど、想像しただけでアワアワして手に汗をかいてくるので、やってみようという気にすらならない。
だから、ラジオ好きがよく言う「昔、深夜ラジオを聴きながら受験勉強していた」なんて高度な芸当をやってのけた経験は、わたしにはない。
わたしの青春時代は、ラジオとともになかった。
生粋のテレビっ子でお笑い好き。暇さえあればテレビにかじりついてバラエティー番組ばかりを観ていた子供時代。お年玉をはたいて購入した今はもう亡きiPod classicに好きなバンドの曲をパンパンに入れ、通学中にひたすら聴き漁ってはライブハウスに足繫く通っていた学生時代。漫画も小説も大好きでたくさん読んでいた。今でも実家にはわたしの青春を彩った大量の蔵書が保管されている。
部活に没頭していたわけでも派手な格好で遊び歩いていたわけでもなかったわたしの青春時代は、広義的な解釈をしたサブカルチャーに傾倒していたと思う。
昨年公開された『花束みたいな恋をした』を観ると刺さり過ぎてゲボを吐いてしまう側の人間だったのにもかかわらず、わたしの通ってきた道にはなぜか深夜ラジオがなかった。
ラジオを聴き始めたのは、もうずっと大人になってから。
たしか、27歳くらいだったと思う。
10代あるいは学生時代にハマった人が多いラジオリスナー界にとって、比較的遅咲きと言えるだろう。
いや、わたしはこれといって咲いちゃいないし、咲くも咲かないも関係のない立場なのだが。
当時、なかなかのブラック企業勤めで疲労困憊していたわたしは、夫の「生活の心配はしなくていいからさ、今の仕事辞めてなにか好きなことをやって過ごしなよ。きっと君はそのほうが向いてるよ」という言葉に全ベットし、自由気ままな無職生活をスタートさせた。
とはいえ、いざ「さぁ、お好きにどうぞ」と言われてみると、好きに過ごすのはなかなかどうして難しい。
縁もゆかりもない土地での結婚。仕事にかまけていたせいで仲の良い友達もいなければ、長らくの激務続きでひどく消耗していたため、出掛ける気力も湧かない。
何かしておかなくちゃ、と思っても体が目覚めない。
「きっと考えなくちゃいけないことがたくさんあるはず」と思うが、考えなくちゃいけないことを考えること自体面倒くさい。
わたしは、毎日無気力だった。
人間としての最後の尊厳を守るため、必要最低限の家事を済ませたあとは日がな一日なにもせず床に転がっているだけ。
そんなわたしを見兼ねた夫が「『ハライチのターン』って知ってる? おもしろいから聴いてみなよ。暇でしょ」と言ったのがきっかけだった。
え~ラジオかぁ……。
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、無職の無は無気力の無。
何もしたくない。何をしたいかもわからない。考えるのすら面倒くさい。
聴くか聴かないかの判断は自分の意志とは別のところにある。
「ほら、これだよ」と夫が流し始めたラジオに、床に突っ伏したまま耳だけを傾けた。
今思えば、無気力人間にとってエネルギーを消耗しないラジオは打ってつけだったのかもしれない。
まさか、これをきっかけにこれほどラジオにどっぷりつかった生活を送るようになるなんて。
深夜ラジオは玄人リスナーたちの集まり。下ネタばかりが横行している。すでに世界が出来上がっていて、初心者の入る隙がない。身内ノリが充満している。
食わず嫌いならぬ聴かず嫌いのせいで、ラジオに対してそんなイメージが付きまとっていたが、『ハライチのターン』を初めて聴いたときにその全てが覆された。
強い言葉はつかわない。下ネタは言わない。初めて聴いた人にもわかるように「以前こういう流れがあって今この話をしています」と説明がある。パーソナリティと古参のハガキ職人との間だけで盛り上がる身内ノリもない。
やれ芸能界の裏話だの、華やかな業界の一面だの、そういった一般人が憧れるような、別の世界の出来事だと受け止めなくてはいけないようなエピソードはまったく出てこない。
ネットで購入した本棚を組み立てようと思ったけれど、部品が一つ足りなくて嫌になっちゃった話。部屋の中でクモを見つけ、どうにかやっつけようと試行錯誤した話。あんかけスープにハマり、水筒に入れて持ち歩いた話。娘のきょうだい喧嘩を仲裁した話。奥さんの友達が家に遊びに来ている状況で、うんこをする音を聞かれないように悪戦苦闘した話。
どれもこれも大勢の人の前で披露するような内容ではなく、誰にだって起こり得る出来事を「聞いてよ、この前こんなことがあってさぁ」と、まるで家族や仲の良い友達を目の前にしているかのような口調で語り掛ける。
わたしだって、面倒くさいの最上級である本棚の組み立てをいざやろうとしたときに、途中で部品が足りないことに気づいたらその瞬間にやる気が削がれるだろうし、部屋にクモが出たらなんとかして追い出そうとするし、家に遊びに来ている夫の友達にはうんこの音を聞かせてなるものかと思う。
みんなそんな立派な人間じゃないよね。毎日ただ暮らしているだけだよ。でもみんなそれぞれ頑張ってるもんね。だからそれがなんだっていうんだ。
当時、時間を消費していただけの無益なわたしを肯定も否定もせず、ただ同列な存在と認識してくれているようで、妙に心地よかったのを覚えている。
ものすごい愛さんが普段ラジオを聴いているiPhone
現在は晴れて無職を脱し、薬剤師として働く傍らほそぼそと文章を書く仕事をしている。
自由気ままに暮らしながらも、30歳を過ぎてそれなりに社会に順応することを覚えた。
職場では毎朝決まって「寒くなってきましたね」と天気の話から始まり、旦那さんの愚痴を聞かされれば「大変ですねぇ」と同調し、同僚たちが悪口で盛り上がっているときは「え~そうなんですかぁ」「なるほど~」と乗っからずにやり過ごす。
関係性が希薄な人であればあるほど、コロナの話も政治の話も家庭の話も「当たり障りのない返事はどれだ?」と咄嗟に頭の中で最適解を検索する。
処世術だと理解はしているものの、なんだかとっても鬱陶しい。
それっぽいテーマ、それっぽい顔、それっぽい会話。
ハァ……大人の付き合いって面倒くさい。
「こう言っておけば波風を立てずに過ごせるんでしょ」なんて心のこもっていない共感ほどつまらないものはない。
たまに、デタラメなこと、わりやすい嘘、くだらない冗談を言ってグッと懐に入ろうとしてみるが、たいてい「おもしろい人だね」と一瞬で間合いを取られる。
「なんだかヘンな人」というカテゴリに入れられ、そこから抜け出すタイミングを見つけられないまま、“大人”という目に見えない線を引かれた状態で付き合い続けなくてはいけなくなる。
期待して傷つかないために、ヘンな人というレッテルを貼られないために、働きやすい環境に身を置くために、秩序と調和を重んじてふんわりとした言葉をやさしく投げるのは仕方のないことなんだろう。
誰彼構わず仲良しになれっこないのだ。そんなことは、もう大人だからさすがにわかっている。
わかっているけれど、「なんかつまんねーな」という気持ちはどうしたって消えない。
気の置けない友達と「聞いてよ、この前こんなことがあってさぁ」とたわいもない話をしたい。
「なにそれ!」「めちゃくちゃバカじゃん!」と冗談を言い合いたい。
くだらないノリをしつこく繰り返して、息ができないくらいゲラゲラ笑って、あとから思い返して「なーんであんなにおもしろかったんだろうね?」とバカバカしくなるやりとりをしたい。
まともな大人の洋服を脱ぎ捨て、ダサくてカッコ悪くてくだらないプリミティブな姿をさらけ出したい。
でも 、大人になったわたしたちにとって、そんな楽しいやりとりはたまにしかできない。
仕事が休みで、お互いの予定が合うときだけ。自分は無敵だと信じてやまなかったあの頃と違って、もはやちょっとしたイベントになっているのである。
現在のわたしの生活は、先に挙げた『ハライチのターン』をはじめ、『伊集院光とらじおと』『空気階段の踊り場』『アルコ&ピースのD.C.GARAGE』、『伊集院光の深夜の馬鹿力』、『川島明のねごと』、『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』その他多数のラジオ番組とともにある。
なかでも、『ハライチのターン』、『アルコ&ピースのD.C.GARAGE』、『空気階段の踊り場』の3つは毎回早く翌週にならないかと心待ちにしていて、我慢できずに二度三度と聴き返すくらい好きで堪らない。
『ハライチのターン』は先述したように日常を切り取った内容のエピソードトークがほとんどだが、リスナーたちの間で有名な「オートマ・マニュアル論争」というものある。
30歳を過ぎてからようやく教習所に通い始め、AT限定の免許を取得した澤部さんの話を聞いて、MT免許を持っている岩井さんが「AT限定? ダッセェな」とバカにすることから始まる。
それに対し、澤部さんが「は? MTなんて必要ねぇんだよ! ダサ! 古っ!」とブチ切れ、大論争に発展するのだ。
「MT車を乗ってるやつはガチャガチャうるせぇんだよ!」
「ゾンビに追いかけられてるとき、車で逃げようとしてもそれがMT車だったらお前は運転できなくて死ぬな」
「は? MTのほうがガチャガチャ手間取って逃げ遅れるだろ!」
くだらない、あまりにもくだらなさ過ぎる。
本気なのかおフザケなのかわからない、絶妙なラインでのしょうもないテーマでの大論争は、学生時代の休み時間や放課後を想起させられ、なんだかうれしくなってしまう。
『アルコ&ピースのD.C.GARAGE』はデタラメばかりだ。
真面目なトーンで嘘ばかりつく平子さん、訂正もツッコミもなくそれに全乗っかりする酒井さん。
ふとしたことがきっかけで、「ウインナーって最強なのでは? トップ・オブ・トップなんじゃないか?」という”ウインナー最強説”が提唱される。そこから、「ウインナーに勝てる存在はなにか」を2人が考えていく。
「車とウインナー」
「ごめん、ウインナーだわ」
「クリスマスとウインナー」
「ウインナーになるねぇ」
「税金免除とウインナー」
「ウインナーだなぁ」
「もう金とかじゃ無理だよな」
加速していくデタラメなやりとりは、もうほとんどファンタジーで、現実に戻そうとする者はハナから存在しない。
挙句の果てに「宇宙の理とウインナーでもウインナー」「となると宇宙の理こそがウインナーだ」と宇宙規模にまで発展し、「ウインナーの語源は勝者という意味のwinnerからきている」と根幹の部分にまで及ぶ。
ウインナー最強説という謎理論を、40歳を過ぎた大の大人があくまでも真剣なテイで公共の電波をつかって長々と語り合っているのが笑えて仕方がない。
『空気階段の踊り場』は、全てがリアルだ。
もぐらさんの貧乏話やクズエピソード。かたまりさんは二度の公開プロポーズでめでたく結婚したものの、わずか11か月のスピード離婚。大喧嘩の末、収録が中断するのは一度や二度ではない。「売れたい」「金がない」と嘆き、号泣し、イジられて不貞腐れるのは日常茶飯事。
そんな泥水を啜っていた頃からキングオブコントのチャンピオンになるまでの過程が、余すことなくさらけ出されているせいで、聴いているこっちはヒリヒリせずにはいられない。
何気ない日常のエピソードも、デタラメなやりとりも、傍から見てればバカバカしい喧嘩も、人生のリアルも、聴いていて笑えるのは本人たちの腕があってこそなのは重々承知している。
でも、“マトモ”な仮面を被ったわたしたちがたまにしか味わえない楽しみを代行してくれているようで、そしてその仲間に自分も入っていると錯覚させられるから、ラジオはおもしろいのだ。
ラジオは、毒にも薬にもならない。
自分の世界を広げてくれたわけでも、青春時代の救いだったわけでも、唯一のささやかな楽しみなわけでもない。
たぶん、ラジオがなくてもそれなりに生きていける。
わたしにとってラジオは、待ちに待った週末に昔からの友達に会える感覚を味わえるもの。
仕事に行きたくない気持ちを押し殺して電車に揺られながら、重たい買い物袋をぶら下げてヨタヨタ歩きながら、溜まりに溜まった汚れた食器を洗いながら、緩んだ脳みそで「バカだなぁ、くっだらねぇなぁ」と時折クスッと笑ってしまう。
「立派な人間じゃないけれどそのままでいいよ。真面目な話なんてどうだっていいからさ、とりあえずしょうもない話を真剣にしようぜ」
そんな風に、くだけた表情で肩を叩かれているようだ。
ものすごい愛さんオススメのTBSラジオ番組
『ハライチのターン』
毎週木曜日24:00~25:00放送中/出演者:ハライチ
『アルコ&ピースのD.C.GARAGE』
毎週火曜日24:00~25:00/出演者:アルコ&ピース
『空気階段の踊り場』
毎週月曜日24:00~25:00/出演者:空気階段
ものすごい愛/北海道札幌市在住。エッセイスト、薬剤師。心身ともにド健康で毎日明るく楽しく暮らしている。明朗快活で前向きな発言、夫との仲良しエピソードを綴ったツイートで人気を博す。回転寿司では最初と最後にアジを食べる。結婚生活をテーマにしたエッセイ『今日もふたり、スキップで ~結婚って“なんかいい”』(大和書房)をはじめ、『命に過ぎたる愛なし ~女の子のための恋愛相談』(内外出版社)、『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』(KADOKAWA)が好評発売中。現在はAMにて『命に過ぎたる愛なし』、NAOTマガジンにて『きみがいるから明日も歩ける』を連載中のほか、様々なWEBメディアにエッセイを寄稿。
llustration:stomachache Edit:ツドイ
(こちらはTBSラジオ「オトビヨリ」にて2022年3月4日に公開した記事です)